わずか『五日の大臣』仕事は失言だけ?
≪苦言を呈した後援会長の目の前で『最後の捨てゼリフ』には全員口をあんぐり≫
麻生新内閣が船出をして間もなく、またしても閣僚お得意の失言が飛び出し、しかも、翌27日には地元宮崎入りした(前)中山国土交通大臣は、多くの後援者から発言を慎むよう釘をさされながら、その舌の根も乾かぬうちに、事もあろうにその席上で重ねて諸悪の根源は日教組だから、小泉総理に習って≪日教組をブッ壊す≫と述べたのです。
そして本人はその翌朝、閣議が始まる前に、ついに辞表を提出し辞任することになったのです。これでは27日の後援者たちの前で言った≪日教組をブッ壊す≫と言った最後の言葉は、今となっては最後の捨てゼリフに聞こえてなりません。ところで捨てゼリフと云えば、歌舞伎の世界には≪捨てゼリフのうまい役者が良い役者≫と云う、六代目菊五郎の言葉があるそうですが、もしかすると福田前総理も中山前国土交通大臣も役者になっていたら、今ごろ大向こうを唸(うな)らせる名優になっていたのかも知れません。
ところで、奇しくも同日(27日)の朝日新聞朝刊に載った「天声人語」に次のような含蓄のある一文が載っていましたので、かいつまんでご紹介してみましょう。
(引)「『中国の宋代の大詩人、蘇軾(そしょく)は政治家でもあった。直言(ちょくげん)(失言?)の癖が災いしてか、たびたび遠方へ流されたりした。詩の一節に≪自ら笑う、平生(へいぜい)、口の為(ため)に忙(ぼう)なるを≫と記している。≪口がもとで数々の面倒を起こしたのが自分でもおかしい≫という意味だと、中国文学の井波律子さんの著書に教わった▲わが政界にも「口のために忙(ぼう)」な面々が目立っている。直言ならまだしも、失言だから情けない。一昨日は、就任したばかりの中山国交相が記者会見で「三連発」を放った。▲成田空港の整備の遅れには「ごね得というか戦後教育が悪かった」。観光について「日本は内向きな単一民族」さらには「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」。言いたい放題の感がある▲人生いろいろだが、失言にもいろいろある。リップサービスが過ぎた程度から、不適切な例え、軽率、勉強不足、だが今回のは日ごろの考えが噴き出してきたものだろう。根は深い…(中略)…▲おりしも、その「政治劇場」の支配人だった小泉元首相が政界引退を表明した。こちらも「自民党をぶっ壊す」に始まり、良くも悪くも「口のために忙」な人だった。小泉流には毀誉褒貶(きよほうへん)(「毀(き)」はそしる、「誉(よ)・褒(ほう)」はほめる、「貶(へん)」はけなす意)が入り交じるが、資質さえ疑われる中山流は「誉」と「褒」から程遠い。』と書かれています。」
ところが、折にふれ朝日新聞とは対極的な立場を取る産經新聞も、今回は足並みをそろえ、9月28日の「産經抄」でも次のように書いていますので、こちらも両紙の内容を比較する意味でその一部を転載してみましょう。
(引)「『これまで本音の発言やちょっとした言葉尻をとらえられて辞めさせられた大臣は数え切れない・・・(中略) ・・・▲国民に言論の自由があるように、政治家にだって自由にモノを言う権利がある。発言に細心の注意を払い、腰低く四方八方に気を使う人物ばかりが大臣に起用されるのでは、政治はちっとも面白くない。とはいっても世間には常識というものがある。▲中山成彬(なりあき)国土交通相は、きのう地元の宮崎で、「日教組は解体しなきゃいかんと思っているところだ」と一席ぶった。道徳教育に反対し、教育基準法改正に抵抗した日教組には、小欄も長年にわたって苦言を呈し続けてきた。大いに賛同したいところだが、中山さん、あなたの担当は国土交通行政だ・・・(中略)・・・▲関係者に聞くと、麻生太郎首相の組閣構想に中山氏の名前は、当初、入っていなかったという。所属する町村派の強い巻き返しで入閣を果たしたが、ポストも本人の希望通りにいかなかったのも所管外の問題に口を出したがる一因のようだ▲いずれにせよ、ニューヨークの国連総会で、派手な外交デビューを、飾ったばかりの麻生首相にとっては、大きな試練だ。宰相たるもの人事は一人で決めなくてはいけない。泉下(あの世)の吉田茂元首相も孫のピンチにハラハラしているのではないか。』」と、以上のように書いていますが、それぞれ微妙に異なる視点と切り口の差に興味を覚えますが、皆さんはどのように受けとめられたでしょう。当然、人それぞれ見方も意見も違うと思いますが、それでいいのです。言論の自由とはそういうもので、百人いれば、百人意見が違うのは当然です。
ただし、その意見の違いから争いを起こしてはなりません。争いからは何も生まれません。もし生まれるものがあるとすれば、それは破壊と憎しみと、醜いいがみ合いだけです。これを≪良寛和尚≫は、『人はそれぞれ、その場だけの自分の考えにこだわり、どこへ行っても互いに正しいとか正しくないときめつける。正しいのは自分の立場から正しいと判断することだけであり、正しくないのは自分が正しくないと判断することだけになっている。ただこのように、自分の主張だけを通していくと、どうして客観的な是非の基準というものが得られようか』と、述べておられます。≪良寛全詩集より≫
このように良寛和尚が言われる言葉の裏には、私達人間の持つ自我と云う厄介な業によるこだわりがあるからでしょう。それは、この良寛全詩集言葉を解説した文の中に『正しいか、正しくないかを決めることが出来ない人も多い。しかし大方の人は、その人の先入観をもとに、正しいとか、正しくないとか決めつける態度が見受けられる。ひょっとして、自分の判断は根本的に間違っているのではないか、と考え直そうとする人はまずいないものだ。ましてや自分の決めつけをひとまず保留して相手の言うことに聞き入り、なるほどと心の底からこれを認め、保留していた自分の意見を修正できる人はまれである』と書かれていますが、これが人間関係をゆがませ、ねじれさせているのです。
昔から『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』と言われています。
このように、人の心の内面でうごめく心の働きは、想像以上に複雑で、難解で、その上外面からは想像しにくい厄介なものです。もっとも人の意見を聞く側にも原因の一端があることは紛れもない事実ですが、これは良寛和尚も言っているように、他人の意見を自分の物差しで計ろうとするからです。仏教には≪他人を我が身に置き換えて≫と云う言葉があるように、人はそれぞれ一人一人考え方も受け止め方も違うのです。そして、さらに厄介なのは同じ人の心の中でもその時々に応じて感じ方も受け止め方も変わると云うことです。これを一般的には、虫の居所が良かったとか、悪かったとか云います。
このような複雑な心の移り変わりの根本的な現象を、密教経典の『大日経』では、その最初に示される≪入真言門住心品第一≫で、複雑で多様な人の心を整理し分類した有名な≪六十心≫が説かれています。しかも、この≪六十の心≫も、時の移り変わりや状況の変化によって変わりうると云うことを、物語として日本の民話の世界が現したのが、新潟県や福島県を中心に広く知られる≪鶴の恩返し≫の心あたたまる民話の物語です。
この民話から佐渡に伝わる≪鶴の恩返し≫を基にして書かれたのが木下順二氏の有名な戯曲『夕鶴』です。しかし、この物語は一般的には山里に住む若者が山仕事の帰り道、矢で射られ苦しんでいる鶴を助けたことから、やがて、その鶴がある夜、若く美しい女性に姿を変えてこの若者の家を訪ね、やがてこの若者の妻になって貧乏だったこの若者を助けようと、秘かに自分の羽根を織り込んだ美しい反物を織り上げ、男に町へ行って売るように云い、男を助けた美しい物語として一般には伝えられていますが、『夕鶴』では、思わぬ大金を懐にした男は、都へ行けばもっと高く売れると、それまでの質素でつつましい生活を忘れて金に目がくらみ、その話を聞き付けた周囲の若者達にもそそのかされ、若者は次々と反物を織らせたのです。本来、鶴であるこの妻は、命の恩人でもある若者の注文に、無理を承知で自らの羽根を抜き、若者のために命がけで作ったのです。
かつて、見返りも求めず自分を救ってくれた命の恩人が、たまたま掴んだ金の魔力に毒されていく過程を描いた『夕鶴』の物語は、一般的に伝えられているような、反物を織る姿を絶対に覗かないよう言ったのに、この若者に自分の本当の姿である鶴の姿を見られたことが原因でその場を去ったとされていますが、本当は清貧で誠実に生きて自分を助けてくれた男が、金の誘惑に負け、次第にその心が欲で汚れていくのを見て、人間の心に見切りを付けたのが本当の理由だと言われています。だとすれば、『鶴の恩返し』こそ、世界の金融界を混乱させた≪アメリカの金の亡者達≫こそ絶対に見るべきでしょう。
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