【平成二十年一月】の定例法話会・テキスト
昨年の世相を示す漢字は『偽(ぎ)』に決定
≪前首相の言う『美しい国』が、なぜ。たった一年で『偽(にせ)の国』に転落したのか≫
昨年は何と云う年だったのでしょう。これでは一年を表す文字が≪偽≫となったのも無理からぬことでしょう。しかし、この≪偽≫と云う文字は、本来『偽造・虚偽』を表し≪にせ・いつわり≫の意味を持ち、残念ながら≪嘘(うそ)も方便(ほうべん)≫と云って人をだますときの代名詞にもなっていますが、本来はこの『方便(ほうべん)』と云う文字は、仏教用語の中の一つで、元は(梵語のウパーヤupaya)から転じた言葉で、その目的は『迷える衆生を仏の御心に少しでも近付け、正しい道に教え導くための仮の教え』と云う意味で、決して人をだましたり陥れるための言葉ではないのです。しかし、これを悪用して人を陥れたり金儲けに走る輩(やから)のあまりにも多過ぎた昨年の世相では、昨年の一文字に京都の清水寺の管長さんが墨痕(ぼっこん)鮮やかに御染筆(ごせんぴつ)された『偽(ぎ)』の一文字はあまりにも私達の心や眼に強烈に映ったのも無理からぬことかも知れません。しかし、これらの元凶は、もちろん片寄った戦後教育や日教組、そして一部の自己中心的な無能者が役員にのさばった結果≪家(うち)のボッチャンに、隣のガキ≫と云う差別的言動によって教育の本質を歪めた結果、多くのPTAと云う組織が、単なる私物化された圧力団体に成り下がったと云う事実も無視できないでしょう。これも国民皆中流と云う意識の風潮後に到来したバブルの崩壊によって日々格差が広がりつつある中で、差別意識と人々の焦りが重なり、本来の日本人が持っていた≪美しい心≫までも失いつつあると云う嘆かわしい今の姿は、古来から培われてきた≪日本人の美しい心≫からすれば、ご先祖様に申し訳がないと云うことでしょう。
最近のように、これほど人が企業や役人や社会を信じられなくなる出来事が次から次へと続いて、国民一人一人の胸に刻み込んだ一年は今まで無かったのではないでしょうか・・・。それでも街中に『ジングルベルのメロディと、第九の合唱』が流れ、一応は年の瀬のムードを醸し出していました。しかし、その裏には数多くの悲劇が隠されていたことは衆知の事実で、ワーキングプアの増加と格差社会の拡大と役人の腐敗と政治の無力が際立ったことも特筆すべき一年だったのではないでしょうか。この他にも、新聞各紙や週刊誌の記事やテレビのニュースを見たり聞いたりしているうちに、料理界で初の文化功労者に選ばれた『吉兆』の創業者≪湯木貞一さん≫の、親の心子知らず・・・。とでも言いたげな悲しそうで寂しそうな姿が、閉じた瞼(まぶた)の奥に浮かぶうち、養老猛司氏の著書≪バカの壁≫と云う本のタイトルが頭の片隅をよぎったのは、なんとも言えない不思議な感覚でした。そこで、その原因について思い出したのが、以前、鎌倉の仏教勉強会でお話した、人の心を蝕(むしば)む『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』の三毒のことを思い出したのですが、これは密教の根本経典でもある『大日経』の冒頭の≪入真言門住心品≫にある、さまざまな人の心を表した『六十心』の最初に『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』が書かれているように、これは人の心の中にある、意識・無意識を問わず、常に≪むさぼり・いかり・おろか≫の心を持つ人間の根本の心の状態を表しています。では、その時に鎌倉セミナーで用いた平成3年12月のテキストの中から、その一部をもう一度振り返ってお話ししてみましょう。
『仏教の教えの一つである『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』の三毒は、百八とも言われる煩悩から発し、誰でも多かれ少なかれ、日々この毒に冒され続けていると云われています。そして、この教えの大切なところは、この『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』の三毒によって造られる諸悪業(しょあくごう)は、本来私達が持っている欲望や煩悩の ≪うずき≫によって、自己中心的で身勝手な心身の働きによって、自制心と云うブレーキが利かなくなり、諸悪業は起こるのです。
これは私達人間の本性は本質的には『悪魔の囁き(ささやき)』とも云われる≪欲望と煩悩の誘惑≫の前に無力であり、しかも、その悪魔の囁きに逆らう術を知りません。
とくに、自我が強く、自分勝手で、他人に対する感謝の心を持たない愚かで無知な人は、善悪のわきまえが乏しく罪を罪とも思わず、太古の昔から次から次へと悪業を重ね、その命が尽きるまで、それらの人々は生涯心を汚し続けてきたのです。そこへ救いの手を差し伸べたのが、仏教の開祖『釈迦』であり、『キリスト』だったのです。
人は常に地人の立場を考え、この世の中、自分一人で生きているのではなく、天地自然や大勢の人々のおかげで、自分は今を生かされ、人も生かされている事に気づき、そのことに心からお蔭様でと云う感謝の気持ちを日々忘れぬよう心掛けてこそ『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』の三毒に犯されることも、悪業を重ねることも回避される筈なのです。しかし、それでも人は気づかずに、つい≪三毒≫による悪魔の誘惑に負けて罪を犯しても、自分は悪いことをしたと云う意識が無く、この気づかずに犯した罪を仏教は最も重いとしています。
それについて、曹洞宗の開祖≪道元禅師≫は、修證義の中で『徒(いたずら)に邪険(じゃけん)に堕(お)ちて虚(むな)しく悪業(あくごう)をせん、惜しからざらめや、悪を作りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆゐ)するに依りて、悪の報を感得(かんとく)せざるには非ず。』と、述べておられます。このように、人はとかく意識する、しないに拘(かか)わらず、≪その事がバレさえしなければ、悪の報いなど有るはずがない≫と、己(おのれ)の悪行の報いを甘く見て、それをあなどり、みくびって、最初は軽い罪だったものが、その行いも『貪(とん)瞋(じん)癡(ち)』の三毒によって次第にエスカレートし、人は愚かになって行くのです。
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