【平成十九年七月】の定例法話会・テキスト
真言密教の教え『即身成仏』とは何か?
《この教えに最も遠いのは『偽善政治家と社保庁の役人達に金の亡者達』でしょう》
毎月皆さんにお話している法話会を始めたのは、今から約二十数年前に鎌倉で始めた仏教勉強会が最初でした。しかし、現在の法話会は、実質的には『時事法話』の形を取っていますが、当初は純粋にお釈迦様の御教えに基づいた理論を中心に、その歴史や教理や経典解説のお話しを主としていましたので、今から考えてみますと、ややもすれば仏教の基礎知識に多少不慣れな方々には難解な部分もあったのではないかと思います。
そこで顕教(一般仏教)に比較して、ダイナミックで重厚な『弘法大師』の御教えによる真言密教を基本理念として日々研鑽する事を目指す未勒館では、空海弘法大師さまの御教えの御心を頂きながら、この世で欲望も煩悩も持ったその身そのままで成仏できると云う《即身成仏》を目指し、日々移り変わる世のなかの出来事の中に、人としての心の持ち方や、人間としての生きざまを学び、あるときは正し、あるときは怒り、時には悲しみ、そして喜びの中から、お釈迦様や、弘法大師様の御教えを《四諦八正道・十二因縁》や《般若心経秘鍵》の中に、現世の事象を客観的な形で真実・真理の光を照らしながら、実践仏教として学んでいこうと考え、十年ほど前から、現在の『実践時事法話』の形に変え、仏教理論の研鑽の話とは別途切り離し、現実の問題を主とした法話に主眼を置き、その後引き続き、各宗それぞれの重要法典や仏教理論のお話しをしてきました。
ちなみに、三年ほど前から《般若心経》の勉強を各宗各派の高僧の解釈の違いについて比較検証しながら勉強してきましたが、その中でも現在取り上げ勉強中の弘法大師の『般若心経秘鍵』と《即身成仏》について、冒頭に取り上げた《欲望も煩悩も持ったその身そのままで成仏できる》と云う教えについては、それぞれの都合で法話会に参加できず、未勒館のホームページでテキストをご覧の方々も《即身成仏》について誤解のないよう、簡単にお話ししておこうと思います。それは、この欲望も煩悩も持ったその身そのままで《成仏できる》と云う教えは、真言宗で日々唱えられている『理趣経』にも書かれているように《人は生まれながらにして、すべての欲望も煩悩も清らかだった》しかし、その《欲望と煩悩》は自ら努力で清めなくてはならない云っているのです。
さしずめ、これは次に述べる《加持の成仏》に該当すると云うことになるでしょうが、この、密教の《即身成仏》には、三段階あり、それを『三種の成仏』と言うことからお話ししてみましょう。そこで、その概要を要約してお話ししますと、三種の成仏の第一は、《理具りぐの成仏》と云い『私達衆生の内に本来仏になる可能性が理法として具そなわっている』と云う事を示し、二番目の《加持かじの成仏》とは『ただ、ひたすら仏に近づくために仏を信じ、たゆまぬ努力と精進努力を重ねること』であり、簡単に言えば衆生と仏が一体になることを言います。さて、最後の《顕得けんとくの成仏》ですが、最初の《理具の成仏》と、次の《加持の成仏》によって顕現し成就された覚りの境地をあらわします。
これを実際に成就された空海弘法大師の例で見てみますと、例えば、お大師さまは幼名を真魚まおと名付けられていましたが、その幼少の頃お一人で黙々と仏様を作っておられました。それをみた周囲の人々は本名の真魚まおではなく『貴とおともの』とお呼びしていました。これは、さしずめ《理具りぐの成仏》でしょう。そして、若いころ、山野を跋消ばっしょう(山を踏み越え、水を渡り諸国を遍歴すること・・広辞苑より)し、ついに行中に明星が口に飛び込む体験をされ、引き続き、唐(中国)の国の西安に渡り、青龍寺で密教の正統伝承者の第七祖『恵果和尚けいかわじょう』から密教のすべてを授かり、第八祖となって帰国後は朝廷より《京都の東寺》を賜り、高野山に密教の修行道場を開き、併せて全国に密教の布教を広めたのですが、これは《加持の成仏》であり、最後に高野山の奥の院で五穀を断ち入定されたのですが、これは《顕得の成仏》を自らが体現されたと云うことでしょう。
しかし、このような《即身成仏》の過程を私達のような凡夫が行なうには、お大師様の何十倍もの努力が必要で、かなり困難なことでしょうが、決して不可能なことではないとお大師さまに一歩でも近付く努力、すなわち《加持の成仏》への努力が大切でしょう。
ところで、問題は『法話会』のテーマ設定の仕方ですが、ここ数ヶ月の《政・官・民》の朝令暮改とも言える、あわただしい動きに対し、テキストの内容を絞り切れず、しかも限られた時間や紙面の都合もあって、不本意ながら皆様にはご不満やご疑念の趣きもあろうかと思いますが、諸般の情勢が落ち着くまで、しばらくご容赦ください。
さて、前置きはこの位にして本題に入りますが、現在庶民の最大の関心事である社保庁問題の見通しがはっきりせぬうちに、久間防衛大臣の辞任に、緒方元公安調査庁長官の朝鮮総連中央本部ビル詐欺事件や、民間ではコムスンの不正請求事件や、北海道の食肉加工業者の食肉偽造事件と続き、これでは国民の誰もが、開いた口が塞がらないと思っていたら、何とお隣りの中国では、さらにその上手を行く段ボール入り肉饅が堂々と作られる工程まで放映され、これはビック・スクープ番組かと思ったら、実際はどこかの国のテレビ局と同じようなヤラセだったと云うのですから、笑うに笑えない茶番でした。しかし、それにしても白昼堂々と海賊版が罷り通るような無法地帯の街で、はたしてオリンピックを開催する資格があったのでしょうか。しかも、現在、我が国で半鐘や電線に工事中の現場から鉄板や金属が頻繁に盗まれるのも北京オリンピックが原因だと云われています。
しかし、ここで、いたずらに国際問題を刺激して国益を煩雑にしたくありませんので、話しを国内問題に戻しますが、それにしても私達にとって大事な年金問題は、第166通常国会終了の七月五日の安部首相の記者会見で、かねて年金問題は一年以内に解決すると約束したものを、年度内(八年三月)に前倒しして解決を目指すと訂正宣言したのですが、問題は、その作業をする社保庁で、大量の《自己都合退職者》が急増していることです。
この大量の《自己都合退職者》の問題浮上で、それでは、誰がこの年金問題の作業をやるのかと云うことです。実際には今回の社保庁問題は、かつての国鉄以上にその根は深いと云われ、しかも社保庁は旧国鉄と違って、自らの力では一円の金も稼げぬにもかかわらず、無駄な箱物(その代表がグリーンピア)を、商売には全く素人の社保庁の役人達が上から云われたままに、自分達の勝手な思い付きと絵に描いた餅にも等しい事業計画で、利用者にとって不便な立地条件の場所に、無計画かつ大量に作ったのですが、ほとんど利用者は無く、しかも、従業員達は日常の閑古鳥が鳴くような楽で遊びにも等しい勤務になれ、たまに大勢の利用客があると、なんで今日はこんなに忙しいのか、と文句を言っていたと云うのです。このような計画も運営管理も出鱈目なぐうたら社保庁で、年金ミス放置が指摘されたのは、今から約50年も前の行政管理庁(現・総務省行政評価局)の頃で、しかも、行政監査で管理のずさんさが指摘され、これは大変なことになるぞと気づいたのは20年も前なのに、何の手も打たずにそのまま放置していたと云うのです。
それにしても、さらに首を傾かしげたくなるのは、久間前防衛大臣が最後の訓示として、並みいる自衛官幹部を前に述べた『職務に緊張感を・・・』の一言ですが、その真意はどういう意味だったのかは分かりませんが、この期に及んで、まだ、長崎・広島への原爆投下発言は『自分は緊張感を持って発言した・・・』とでも云うのでしょうか・・・。この一言を見ても、最近の我が国の大臣のレベルを暗示しているようで、加えて他の大臣達の発言を見ても、危なくて見ていられないことは誰が見ても明らかと云うべきでしょう。
ところで、我が国の民主主義を支えるはずの《司法・行政・立法》の『三権分立』は、どうなっているのでしょう。特に、法廷で公正な法的判断を司る『司法』に、時として我々の常識から見て納得できない、浮世離れをした判決が時折みられるのは、裁判員制度の導入目前の我が国としては、誠に残念なことです。一方『行政』は社保庁の50年を見れば分かる通りですが、最後の『立法』は、と見てみますと、我が国の大切な基本指針を決める立法府を構成する国会議員の先生方についても、この人に孫まご子この時代の日本の未来を託してもよいと思える議員がはたして何人いるでしょう。ところが、その疑問符のつく《司法・行政・立法》の三権の中で、最近心から喝采を送りたくなる《快挙》が『司法』の世界でありました。それは七月九日に、ブルドックソースに対し、米系投資ファンドの、スティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドがおこなった、敵対的株式公開買い付け《TOB》をめぐり、東京高裁からスティールは『乱用的買収者』と断定され、スティール社は、日本市場における《ハゲタカ投資戦略》の根本的な見直しを迫られる事態に追い込まれる判決が下されたことです。
ところで、よく考えて見れば一世を風靡した感のある『ファンド』とは、高配当をエサに大勢の投資家と云う《金の亡者達》から金をかき集め、《人のふんどしで》で相撲を取ろうとする連中ですから、彼らの行為は言葉とは裏腹に汚れた欲望の固まりなのです。
まして、話を同じ《金の亡者達》の朝鮮総連本部ビル詐欺事件に戻してみますと、この緒方元長官と満井元社長の二人三脚の詐欺事件は《読売新聞の特集記事『裏切り』》によると、京都の名庭園や六本木のビルの巨額物件にまで及んでいたと云うのですから、これでは、どちらも《一蓮托生》で同じ穴のムジナと言ってよく、ことに、現在は新旧のお盆の月にもあたり、地獄の蓋も開くことですし、閻魔大王の裁きを受けた霊魂達も帰って来ることですから、彼らに閻魔大王の裁きの様子を直接聞いてみたいものです。
しかし、彼等はすでに肉体もなく声も持たないので、代わりに『十王経』の中から閻魔様の裁きの様子を要約してみますと、以下のような恐ろしい様子が書かれています。
『閻魔大王は、人の死から三十五日目にご出座され、中でも他の九人の王には無いほど、激しい怒りの形相をして亡者を睨にらみ、罪人は目がくらみ気絶する。しかも、大王がその罪人を責める声は百千の雷が同時にとどろくような大声で、次のように告げるのである。《お前は昔から今まで、何千万回と数えきれないほどここに来た。そのたびに、許されて娑婆に戻ったならば、仏道修行をして、二度とこの悪処には来ないようにと言いふくめたのに、そのかいもなくまた来るとは情けないことよ。せっかく受けがたい人間としての身を受け、幸いに仏法が広まっている国に生まれながら、仏道修行をする人々を他人ごとに見て、心のままにふるまった結果、またもこの悪処に戻ってきたのだ。お前が娑婆で気まま放題、恥知らずで慈悲もなく、けちで自分だけのためにむさぼり貯えた財宝が、ここではどれほどの役に立ったのだ!》このように大王に責められると悪人は一言もなく、涙にむせぶばかりである。さらに大王は《お前の一生の罪業を、鉄の札に書き記しているから、今から読んで聞かせよう》と、次のように告げたのです《さてお前は、娑婆にあって自分の心のままに悪業を重ね、ただの一度も反省して悔いる心もなかった。今ここに来て、慌てて後悔して泣いても無駄なことだ。》と言って、閻魔の獄卒ごくそつ〈地獄で悪業の報いとして堕ちてくる罪人を責めさいなむ鬼〉に命じて罪人を地獄へ落とすよう決定するのです』さて、そこで冒頭に述べた《金の亡者達》の閻魔の裁きはどうなるのでしょう。
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