【平成二十三年四月】の定例法話会・テキスト
『東北地方大震災』と東電の功罪
≪東電のずさんな対応と、被爆と命の恐怖に立ち向かう協力会社の社員達。≫
今月も引き続き『東北関東太平洋沖地震』の話になりますが、今回の地震の正式名称とは異なっています。しかし未勒館では高野山教報の呼び方に習い上記の通り、あえて『東北関東太平洋沖地震』と呼ぶことに致しました。
さて、今月もこの大地震、大災害、福島原発事故と天災・人災入り交じってのお話しをすることになりますが、筆の進め方は、苦難を乗り越え取材された方達への敬意の気持ちを込めてメディア・ミックス(広辞苑によると、新聞・雑誌・テレビなど複数のメディアを組み合わせる)の方法で書くことにしました。
まず初めに、今回の『東北関東太平洋沖地震』プラス『福島原発事故』で犠牲になられた方々へ心よりお悔やみを申し上げると共に、この災害によって不自由な生活を止むをえず過ごされている方々に対し御見舞い申し上げます。
さて、それでは今回の大災害を伝えるニュースの中で、迫真のレポートと思える記事が、3月31日の産經新聞一面にありましたのでその一部を転載します。
それは『原発作業員「俺たちがやる」』の見出しに続いて本文は、次のように始まっています…≪ズドン!。重い爆発音が響き渡った。今月(3月)14日午前11時1分、東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。東電の下請け業務を行なう協力会社のベテラン社員、根本誠さん(47)=仮名=は、隣の2号機で電源復旧作業に当たっていた。外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、コンクリートのがれきが散乱していた。灰色の煙がもうもうと立ち上がっていた。「もうだめだ…。」仲間の声が聞こえた。根本さんは「放射線をくらうぞ!避難するんだ」と声を上げて防護服のまま、がれきの上を走った。乗ってきた車3台は爆風で窓が割れていて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近く、最後は息切れして歩いてたどり着いた。全員の無事を確認し、同僚4人ほどと喫煙室で「やばかった」「もし外にいたらかなりの線量をくらっていた」と話した。仲間を見ると、たばこを持つ手が震えていた。
根本さんは11日の震災発生時、第1原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚十数人とそのまま原発に残った。
「被爆の危険性があることは分かっていたが、復旧作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた」4日間働き続け、水素爆発に遭遇した翌日に当たる15日朝、東電の緊急非難命令により避難した。
東電によると、第1原発では連日300〜500人が働き、30日は東電社員253人、協力会社の社員50人の計303人に上った。1日の食事は非常食2食、毛布1枚にくるまり雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける彼らの大半は、地元の住人である。現在は避難生活を送る根本さん「会社は『すぐ来てくれ』など命令的なことは決して口にしない。ただ『覚悟が決まったら来てほしい』と、自己責任を求められる」と話す。
3号機の発電用タービン建屋地下で24日、放射性物質(放射能)に汚染された水で被爆した作業員3人も根本さんの部下らだった。東電社員の中には5日間で年間被爆量の上限の50年分を浴びた人もいた。被爆という生命の危険を冒してまで、なぜ彼らは行くのか…?。
そして、この記事はさらに次のようにページを替えて続きます。
≪東京電力福島第1原発で保守の仕事を請け負う会社に勤める、佐藤大輔さんは(27)=仮名=は今月(3月16日)、同僚20人と、マイクロバスに乗り、第1原発へ向かった。元請けの協力会社から打診され「行きます」と志願した。5号機の冷温保持にかかわる作業だった。「原子炉が爆発したら終わりだが、この仕事を9年間続けてきた経験から、召集がかかるうちは何とかなると判断した。ただ、中には会社員として行かざるを得ないという人もいて、車内の空気は沈んでいた。年長の作業員は『もう死ぬのか』と青い顔をしていた。」
佐藤さんは、15日に2号機が爆発した際、現場から5キロ地点のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点)にいた、経済産業省原子力安全・保安院の職員らが約50キロ離れた郡山市まで退避したことを挙げ、こう話した。
「誰かがやらなきゃならないことだから、やっている。ほかの専門的な仕事と職種が違うだけのことだと思う。保安院の人たちもそこに作業員がいる限り、とどまるのが仕事ではないか。専門家が住民より遠くへ逃げたら、誰を信じればいいのか、そういう人たちがいるから、原発へ行く者が英雄視されるのではないか」と述べています。
続けて同じ紙面にはレスキュー隊と自衛隊のことも次のように書いています。
≪復旧作業には、地元住民ら作業員だけでなく東京消防庁のハイパーレスキュー隊や自衛隊、警視庁などの「応援組」も放水活動のために駆け付けた。
大阪市消防局は53人が20日夜から90時間、東京消防庁の活動を支援した。本人の意思を確認した上で、職務命令が出される事実上の志願だった。
指揮を執った片山雅義警防担当課長代理(48)は「東京消防庁が孤軍奮闘、国民のために命がけで戦っているのを、同じ消防職員として見過ごすわけにはいかない思いだった」と語った。
「私の息子は24歳だが、ほぼ同じ年齢の、東京の隊員が、体を震わせながら、『任務ですから』とだけ言い残して出動していった」
原発から約20キロ地点の前進基地から、800m地点の指揮所までサイレンを嗚らし移動中、自分達に向かってお年寄りら6人ほどの住民がおじぎをした。
片山さんは「腰を90度まで曲げて、深々とおじぎをされた。その姿を見て、これは絶対に何かお役に立って帰らなければと思った」とはなした。≫
そこで、今度は東電側から見た同紙の記事を拾ってみますと…。
≪かつて有数の出稼ぎ地帯だった福島県の太平洋岸「浜通り」地方…。
この地に昭和42年の福島第1原発1号機の着工から、平成5年の広野火力発電所4号機の完成まで、四半世紀にわたり原発10機、火力4機が作られた。福島大学の清水修二副学長(62)=財政学=の研究によれば、総事業費は2兆円余り、月当たり71億円に上った。清水さんは「建設が終わった後も運転保守の仕事が続き、6町2村で、人ロ約7万2千人の双葉郡の2世帯に1人は発電所で働いている。現在、復旧作業を続けているのは、使命感や責任感もあるだろうし、原発への依存度が高いがゆえに『生活のため』という面もあるだろう。地元にはそういう現実がある」と指摘する。
第2原発で第1原発の復旧を支援する東電の女性社員は本社の上司へ次のような電子メールを送った。『実家の両親も津波に流され、いまだに行方がわかりません。すぐにでも飛んでいきたい…。被災者である前に、東電社員としてみんな職務を全うしようと頑張っています。私達は最後まで戦います』と…。
発生当初から復旧作業に当たり、現在は避難生活を送る根本誠さんは、来週にも第1原発へ戻るという。
「消防や自衛隊の方は公務だから、われわれ会社員とは使命感の持ちようも異なるかもしれない。同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。むろん、行かなくても誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く」…。≫とありますが、続いて東電の対応について、4/5日の産經新聞は『東電ずさんな対応』と云うタイトルを掲げ、次のように書いています。
≪東電が、放射性物質(放射能)を含む低濃度の汚染水を(近隣諸国や、隣接自治体に相談もせず)海に放出する事態になったのは、原子炉冷却のための注水が原因と見られる建屋地下の汚染水や、屋外の立て坑などにたまった汚染水の処理が追い付かなくなったからだ。
汚染水対策で原子力安全委員会は3月29日「井戸を掘る」「使わなくなったタンカーを活用する」「米軍の協力を得る」などの助言をしたものの、東電は取り入れなかった。
東電は独自に、4号機タービン建屋をタンク代わりにして水を移す計画を立てたが、4号機のタービン建屋が3号機とつながっていて、汚染水の貯蔵場所として使えないことがわかり、断念した。こうしたずさんな対応が、低濃度とはいえ、自ら大量の汚染水を海に放出する事態を招いた≫まさに自己過信である。
さて最後になりますが、四月四日の毎日新聞系の週刊誌「アエラ」に『それでも生きていく』≪宗教学者・山折哲雄さんが語る日本人の希望≫と云うタイトルで特集記事が載っていました。そこにはタイトルに続いて「すべてを奪われた悲しみにも、泣き叫ぶものはいない。」とありますが、山折さんはその文章の本文冒頭で次のように書いています。
『いまテレビを見ていて心に残るのは、被災者の方々の穏やかな表情です。子どもも大人も、おじいちゃんも、おばあちゃんも。
これを初めて強く感じたのは阪神淡路大震災の時でした。肉親を亡くされ、心の中には怒りや悲しみ、苦しみが波打っているにもかかわらず、その表情はみな柔らかく穏やかなのです。
初めはテレビカメラがそういう人を選んでいるのかと思いました。でも、新潟県中越地震の時も同じでした。この穏やかさは一体何だろう。と疑問がわき、考え始めました。その後、アメリカのハリケーンで大災害を被った人々の映像では、みな泣き叫び、怒っている。それは大災害が立て続けに起きたトルコやスマトラ、中国でも変わらない。その表情の対照的な違いには、なにかある、と。
一つの推論を立てました。日本人はいわば地震列島人として五千年、一万年のあいだ、地震という不安定な自然の脅威、災害と付き合い続けてきた。ある意味では慣れてきた。恐ろしい自然との付き合い方を身につけてきた。そこから一種の落ち着き、諦めのようなものが育まれたのではないかと。
改めて、地震学者の寺田寅彦が昭和十年に書いた「日本人の自然観」を読んでみました。寺田は、日本の自然は非常に不安定だということを、ヨーロッパと比較して言っています。その不安定な自然とつき合う中で日本人は、「天然の無常」という感覚を身につけていったと書いています。
≪穏やかな表情の理由≫日本人の宗教観、自然観と重なる無常感覚です。
自然が荒れ狂うときには、それにあらがうことを諦め、頭を垂れ、膝を屈して、そしてそこから自分たちの生活をどう築いていくか、今日の言葉を使えば、危機管理の思想や感覚というものを育んできた。その何千年もの間、あるいは何万年もかけて作り上げられてきた表情、それがあの穏やかな表情なのだと思うに至りました。涙は浮かべても、あれだけの穏やかな表情、いい意味のにこやかな表情さえ浮かべて被害の状況を語る。僕はこれが日本人のものすごい可能性だと思います。自然との付き合い方の中から、困難を切り抜けて生き抜いていくエネルギーが生まれ出てくる。そういう日本人独特の忍耐心の可能性みたいなものを感じずにはいられません。
とすれば、言葉の上の慰めや励ましよりも、共にその悲しみを引き受けよう、でいいのです。あるいはそれが、おそらく最高の心の交流になるのです。それが無常感覚と深いところでつながる。
キリスト教的考え方はそうではありません。悲しみにいる人間はそこから抜け出させよう、救い出そうということになります。救い、癒しのベクトル(大きさと向きを有する、カ・速度・加速度を表す)が違う。地域や国、行政など様々なレベルで支援が必要なのはその通りですが、中身として悲しみを共に生きるということと、悲しみから抜け出させようとすることには大きな違いがある。』
この文章の続きはまだまだ続きますが、その続きは≪AERA≫の4/4日号を読んで頂くとして、(4/16)日に、NHKで放送された『ハーバード白熱教室』で著名な≪マイケル・サンデル、ハーバード大学教授≫の東京・中国・米国を結んだ、三元同時中継講義でも、この日本の『東北関東太平沖地震』を取り上げていましたが、その主題は災害の大きさではなく、先にも書いたように日本の被災者の冷静で暴動も略奪も起こさず、秩序を守り被災者同士が互いに助け合いかばい合う姿に各国の人達も信じられないと言う顔で意見を述べていました。
そして、この日本人の私利私欲、自我をも超えた助け合いの精神の美しい姿を見て、参加者一同、国を越え人種を越えて異口同音に、日本は必ず復興すると言っていたように聞こえましたし、私達もそう思っています。
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