【平成二十三年二月】の定例法話会・テキスト
特定の姿を持たない日本の神々
≪神仏習合と本地垂迹思想が、日本人の心の原風景を形成した≫
先月は曽野綾子さんの『イエスの知られざる屈辱』のお話しをしましたが、その際テキストには書きませんでしたが、イエスの≪神の子宣言≫というのがあったのです。それは、ある日の夕刻イエスの姿が見えなくなった事に気がついた人々が、懸命に捜していたところ、なんとイエスは神聖な神の神殿の中央に、一人すっくと立っていたのです。それを見た人々は、何でお前がそんな神聖な処に居るんだ…!。とイエスを叱責しました。するとイエスは『私は神の子だ、その私が父のところにいてなぜ悪い!』と言い返したのです。イエスは神の子として、大勢の人々の前で、自らが神の子であると宣言したのです。
それに比べれば、日本の神々は特定の姿を持たないと云われていますが、その特長とも云うべき特異さは、その一つが、我が国独自の民族宗教であり、その上、その成り立ちが古事記でも明らかにされているように、神武天皇以来、皇室とも深い絆(きずな)を持つ『神道(しんとう)』ですが、それについて、月刊≪大法輪≫の一月号の特集『神社・神道の常識と雑学』の中から、その一部を抜粋しながら読んでみますと、まず最初が、国学院大学講師の「島田潔(きよし)先生」の『興味深い御神体・祭り・奉納物など』の冒頭に≪日本の神々は、特定の姿を待たない。それは、目には見えない力やエネルギーのようなものである。だが、時としてその力やエネルギーが、目に見える形で顕(あらわれ)ることがある。・‥中略・‥例えば、山。日本各地には、神の宿る山としての「神体山(しんたいさん)」が多数ある。
その代表的な例に、奈良県の大三輪山(おおみわさん)がある。この山の麓(ふもと)に鎮座する大神(おおみわ)神社は、御神体(御霊代みたましろ)を祀る本殿がなく、大三輪山自体を拝む形をとっている。あえて「神体山(しんたいさん)」とは呼ばずとも神の宿る山を祀る例は多く、」日本一の山、富士山もまた、富士山本宮浅間(せんげん)大社の神の山であり、その山頂は神社境内となっており、奥宮(おくみや)が祀られている。或いは、岩。山形県の湯殿山神社の「御神体」は、頂部から湯を噴出する大岩である。
この他にも、和歌山県の熊野那智大社のように、瀧(那智の瀧)を神顕現(かみけんげん)の場として祀ったと伝えられる神牡もある。海外にまでその名を知られる、毎年七月十四日の熊野那智大社例祭「那智の火祭り」は、瀧をかたどった「扇神輿(おうぎみこし)」が那智の瀧に面した≪飛瀧(ひろう)神社≫の前に並べられ、滝に宿る神霊を迎える祭りである。以上のような例は、神々の世界とは、つまり人間界の枠からはみ出す場にこそ姿を顕すものであることを如実に物語っている。≫と姿なき神々について概略説明されています。そして次のようにも述べておられます。≪日本の神々は、全知全能の存在ではない。いかなる時も変わることなく人々を見守ってくれる、とは限らない。そして「神は人の敬いにより威を増す」と云う言葉、これは鎌倉時代に記された文言(もんごん)だが、日本の神々と人々との関係を端的に示している。神々の力は、人の敬い方次第で、強くもなれば弱くもなるのである…と。
…中略…さらに、人々の敬いと神の力との関係は、神社への奉納物にも表れる。その最も著名な例は、京都の伏見稲荷大社の稲荷山に立ち並ぶ、五千基以上一万基にもおよぶ朱の鳥居で、これは、願掛けとその願いが叶ったお礼の鳥居で、人々の願いに神が応えてきた結果なのである。≫と、続けておられます。
次は、仏教大学の非常勤講師の『船田淳一先生』の≪日本人の心の原風景≫と題した≪神社とお寺≫について見てみたいと思います。
最初は≪神と仏の住み分け≫と題して次のように述べておられます。それは『日本人の中には、除夜の鐘を突きに「お寺」参拝し、その足で「神社」に参拝する方々が多いだろう。また自宅に「神棚」と「仏壇」が共に備わっている場合も、さして珍しくはあるまい。その一方で、葬式や法事・彼岸・お盆など死後(あの世)に関わる分野は寺院の「僧侶」に任せ、七五三や結婚式など、この世のめでたい人生儀礼は神社の「神主」にお願いするというような、一定のパターンと機能分担もでき上がっている。
こうした「仏教」と「神道」という伝統的な二つの宗教は、私達の生活空間の内部に溶け込んでいる。そのため普段は、あまり意識の上に登ることは無いかも知れないが、むろんこの二つの宗教は異なるものである。特に仏教は深く日本の風土に根付いているため、時折忘れそうになるが、言うまでもなく本来はインドで発祥した外国の宗教である。結果的に言えば、現代の日本人は仏教と神道の、宗教としての活動や管掌領域を分割することによって、巧みな形でΓ神」と「仏」を共存させているのである。つまり私たち日本人は、仏教と神道が異なるものであることを、教養や思想のレベルではともかく、日常的な生活感覚のレベルで理解しているのだが、そこにあえて疑問を差し挾んだり、矛盾を感じることは稀なのである。』
こうした信仰形態は、唯一の神を信じる欧米のキリスト教文化圏に生きる人々の目からは、奇異に映ることがある。仏教・神道ともに多神教である上に、日本人はその多神教を掛け持ちで信仰している、という具合に写ってしまうのだ。
さて共存しつつも住み分けている現在の仏教=お寺と神道=神社だが、こうした形態が定着してゆくのは、実にこの国が近代化へと漕ぎだした、明治維新という社会変革以降のことであって、実にたかだか百五十年程しか遡らないのである!江戸時代までは程度の差こそあれ、仏教と神道は深く融合していたのである。以下にその歴史をごく簡単にだが、具体的に振り返ってみよう。
六世紀に仏教が伝来してから暫くの聞、外来の宗教を受け入れるか否かをめぐって、豪族間の権力闘争とも絡みあった緊張関係が続いたとされている。
『日本書記』によれば、崇仏(すうぶつ)派の蘇我(そが)氏・聖徳太子と、神道の神々を重んじる廃仏(はいぶつ)派の物部(もののべ)氏が合戦に及んだという。
最近の歴史学では、この伝承は『日本書記』の創作であろうとされているが、それはともかくとして、日本の神と異国出身の仏は、歴史的に密接な関係性を、徐々に構築してゆく。
奈良時代に聖武(しょうむ)天皇が東大寺創建と大仏建立(こんりゅう)を発願(ほつがん)した際に、宇佐うさ(大分県)の八幡(はちまん)神が、この国家的な一大仏教事業を守護すると託宣(たくせん)し、さらに八幡の神輿(みこし)が遥々(はるばる)と平城京まで上洛したことが、奈良時代の歴史を記した≪続日本記(しょくにほんぎ)≫に見えている。ここに仏教を外護(げご)する日本の神の姿が浮上する。これは(護法善神ごぼうぜんしん思想)と呼ばれるものであり、今でも東大寺の境内に隣接して「鎮守社(ちんじゅしゃ)」としての手向山(たむけやま)八幡宮が鎮座しているのは、正にこの故事に基づくのである。…中略…
さて平安時代以降、鎌倉時代にかけて、神と仏はさらにその結合を進め、強固な一体化を成し遂げるに至る。それを≪本字垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)≫と言う。
本地とは本体の意味であり、垂迹とは化身の意味である。つまり仏と神はついに本体=化身の関係として同体と看倣(みな)されたのである。天照大神の本地仏は大日如来であり、阿弥陀仏の垂迹は八幡神であるというような発想は民衆にも広く波及し、神社の御神体が仏像である例も少なくなかった。こうした信仰形態を総称して≪神仏習合(しんぶつしゅうごう)≫と呼ぶのであり、基本的には江戸時代まで継続された。…と書いたあと≪引き裂かれた神と仏≫と題しさらに述べる。
『しかし先述のように、そうした一種の神仏の蜜月状態は明治時代に終止符を打たれる。そこには神道国教化を推進し、天皇中心の国家形成を急ぐ明治政府の強い意思が介在した。そのために神仏が習合(融合)していては都合が悪く、権カ的にこれを分離させる必要から、明治元年には「神仏分離令」が布告されている。千年続いた神仏習合も表面的にはその姿を消すことになったのである。
だが現在なお奈良の興福寺では正月に、かつて法相宗(ほっそうしゅう)の守護神とされ ていた春日大社(かすがたいしゃ)に一山の僧侶が揃(そろ)って参拝し神前読経(しんぜんどきょう)が為(な)されるし、滋賀県の日吉大社(ひよしたいしゃ)では四月の山王祭(さんのうさい)において、同社を鎮守(ちんじゅ)と崇(あが)めていた比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の天台座主(てんだいざす)が参拝し奉幣(ほうへい)するなど、神仏習合時代の面影を伝える行事を発見することができる。
春日大社と興福寺・東大寺と八幡宮・延暦寺と日吉大社…隣り合う寺院と神社の例は、この他に幾らでも検出可能であるし、目を凝らせば身近な寺院の境内の一隅に、小さな神祠を発見することも決して難しくはないのだ。神仏はひとたび近代国家の政策により分離されたが、改めてその機能を分掌し合う<神仏保完>の形で、我々の精神生活の中に息づいている。
寺院と神社が隣り合っている、それが日本人の心の原風景なのであり、お寺だけでも神社だけでも完結しないもののように思われるが、いかがであろうか?』
と締めくくっていますが、そこで、このテキストを読んだ多くの人々にとって先に出てきた≪伏見稲荷大社≫の五千から一万基にも及ぶ、朱塗りの赤い鳥居の値段かもしれないと考え、作家<豊嶋泰国氏>の同じく同誌に掲載されていた『いろいろな物の値段』によると、≪神社の霊域を示す門が鳥居である。いわば神社の象徴だ。として、鳥居と言えば、伏見稲荷大社に夥(おびただ)しく立っている鳥居が有名である。願い事が『通る』とか『通った』お礼の意味で鳥居を奉納する習わしが江戸時代に始まり、今や総数にして一万基を越えるともいわれる。
この、伏見稲荷大社の鳥居は柱の太さや設置場所により「初穂料(金額)」が大きく異なる。柱が最も細いサイズ(直径十五センチ)が約四十万円。最も太いもの(七十五センチ)は数千万円以上する。≫
奉納された鳥居は原則的に木製である。いずれ腐食するので撤去されるか、取り替えられる運命にある。直径十五センチだと五年ほど、七十五センチだと二十五年程度もつという。
なぜもっと耐久性のある素材にしないのかという疑問があるかも知れない。その場合、神社の一時的な収入源にはなるけれども、長期的な財源にはならないからだ。取り替えることを前提にした木製だからこそ、神社経営が安定的に確保されることになるのである。
伏見稲荷大社の各鳥居の柱には奉納者の名前や会社名、住所、建立年月日が記されている。つまり、公告効果もあるわけで、現代的にいえば、個人や企業が鳥居の命名権を買い取って神域を守るという考え方もできよう。
もうひとつ、専門業者の鳥居についてもふれておこう。耐久性の強い鋼製鳥居(高さ二・五メートル、間口三メートル・支柱径三十センチ)で八十万〜二百万円ほどである。これとほぼ同じサイズの場合、石製は百万円前後、高級木材の桧造りだと、二百五十万円以上かかる。一方、安いものは数十万からある。その中には塩化ビニール製などの見栄えがしない素材を使っていたり、数年で腐食してしまうような材質もあるという。
鳥居に続いては、『狛犬(こまいぬ)』について書いてみますと≪社頭や神前に一対(二体)で置かれている神獣で、神前守護と邪気を祓う魔除けを兼ね備えたものとされる。古代エジプトやインドで神殿や門前に置いた獅子が源流といわれる。日本では平安中期、清涼殿(せいりょうでん)に置かれたのが始まりと伝える。獅子型に限らず、キツネ、狼、牛、猪など祭神にちなむ神使(しんし)や眷族(けんぞく)の場合がある。
いずれにせよ、一方は口を開き、他方は口を閉じた阿吽(あうん)形が一般的だ。
材質は石製が多いけれども、金属製や陶製、木製などもある。神社の氏子や崇敬者が記念や祈願、感謝などの意味で奉納する。
狛犬の値段だが、これも大きさや形、石の種類などによってだいぶ違う。
最近は専門の手彫りができる職人がほとんどいないこともあって、中国製の量産品が出回っている。安いものは基本的に中国産の石か人造石で、制作も中国で行なう。中国産以外の高価な石を使う場合でも加工(機械彫り)は中国というパターンが普通といわれる。流通品の場合、大体の目安として、一対で五十万円前後から二百万円ほどかかる。手彫りのオーダーメードになると、大きさなどにもよるが、数百万から一千万円以上するそうです。
さて、次は神社といえば、狛犬とともに注連縄(しめなわ)の話をすべきでしょう。
そこで、神社の鳥居や社殿に張られている注連縄(しめなわ)は、神聖な場所と俗なる世界の境界を示すためのもので、その値段も大型のものは材料や直径や長さによって変わりますが、例えば麻製のもので(直径二十五センチ・長さ三・三メートル)は約四十五万円前後、そして、縁結びの神で有名な出雲大社神楽殿の日本最大級の大注連縄(長さ十三メートル、重量五トン)ならば軽く見積っても数千万するという。≫と書かれています,
今月は、いつもの仏教を主にしたお話しから、少々趣きの違ったお話しになりましたが、これを参考にご近所の神社などへお参リするのもよいでしょう。
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