【平成二十二年五月】の定例法話会・テキスト
『父母の愛』は、遥に海山を超える
《但し、盲目的な愛では子供は救えない‥・世相に見る親達の戸惑い。》
我が国では、昔から「父の恩は、山よりも高く、母の恩は海よりも深し…」と云う言葉がありますが、今月は、その「母の日」の月ですので、私達が、ともすれば忘れがちな、母に対する想いを込めて、感謝の念を新たにしたいと思います。
ところで、最近の世相を見るに、あらゆる犯罪の低年齢化が社会間題になっていますが、例えば「ある有名女優の子供による麻薬事件とその母や、全国各地で多発する親殺しに子殺し」の様に、我が子を救いたい一心から、ひたすら息子に云われるまま、盲目的に子供の言いなりに甘やかしてしまう姿は、現代の母親が抱えている問題点を浮き彫りにすると典に『父母恩重経』が説く「次の部分」を連想させる≪悲しい母の姿≫だとも云えるでしょう。
≪経典より‥・≫それは『水(みず)の如(ごと)き霜(しも)の夜(よ)にも、氷(こほり)の如(ごと)き雪(ゆき)の曉(あした)にも、乾(かわ)ける處(ところ)に子(こ)を廻(ま)はし、濕(うるほ)へる處(ところ)に己(おの)れ臥(ふ)す、子(こ)己(おの)が懐(ふところ)に屎(くそま)り、或(あるい)は其(そ)の衣(ころも)に尿(いばり)するも、手自(てみづ)から洗(あら)ひ灌(そそ)ぎ、臭穢(しうえ)を厭(いと)ふことなし。食味(しょくみ)を口(くち)に含(ふく)みて、これを子(こ)に哺(ふく)むるにあたりては、苦(にが)きものは自(みづ)から嚥(の)み、甘(あま)きものは吐(は)きて與(あた)ふ。若(も)し夫(そ)れ子(こ)のために、止(や)むを得(え)ざる事あれば躬(み)づから、悪業(あくごう)を造(つく)りて、悪趣(あくしゅ)に墜(お)つることを甘(あま)んず。』
この経には、己を犠牲にしても、子を守ろうとする母親の必死の姿があります。そして仏は、さらに『父母恩重経』の核心の部分で、次のように説いています。
『父母(ちちはは)の恩(おん)重(おも)きこと、天(てん)の極(きわ)まり無きが如し。善男子(ぜんなんし)善女人(ぜんにょにん)、別(わ)けて之(これ)を説(と)けば、父(ちち)母(はは)に十種(じゅっしゅ)の恩徳(おんとく)あり、何をか十種(じゅっしゅ)となす。
一には、懐胎守護(かいたいしゅご)の恩(おん)。
二には、臨終受苦(りんしょうじゅく)の恩(おん)。
三には、生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩(おん)。
四には、乳哺養育(にゅうほよういく)の恩(おん)。
五には、廻乾就濕(かいかんじゅしつ)の恩(おん)。
六には、洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩(おん)。
七には、嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩(おん)。
八には、為造悪業(いそうあくごう)の恩(おん)。
九には、遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩(おん)。
十には、究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩(おん)。
是(かく)の如(ごと)きの恩徳(おんとく)、如何(いか)にして報(ほう)ずべき。然(しか)るに長(ちょう)じて人(ひと)と成(な)れば、聲(こえ)を坑(あ)げ、気(き)を怒(いか)らして父(ちち)の言(げん)に順(したが)はず、母(はは)の言(げん)に瞋(いか)りを含(ふく)む。既(すで)にして婦妻(ふさい)を娶(めと)れば、父母(ちちはは)にそむき違(たが)ふこと、恩(おん)なき人(ひと)の如(ごと)く』…と書かれています。
《これらの、それぞれの意味は、次の「掲(げ)(賛歌)」に於て述べられました。》
『父母の恩の重いことは、天の極まりがないように無限である。善男子、善女人よ、このようなありがたい恩に、どのようにして報いるべきであろうか』
続いて、次のように唱えられたのです。《荒崎良徳著(母のこころ)より‥‥》
@ 『慈しみ深き母、子を孕めば、十月の間に、血を分け肉を頒(わか)ちて、身は重病を感ずる。子の身体は、これによって成就する。』
A 月満ち時いたれば、苦しみの風吹き寄せて、五体すべてに激痛を覚え、節々はすべてばらばらになるかとも思われる。ときには狂わんばかりに取り乱し、ときには気を失ってしまう。苦しみの末、無事出産を迎えれば、母はようやく生き返った心地となり、子の産声を耳にすれば、自分も生まれ出たような気持ちとなる。』
B 〜C『初産のそのときは、花のように美しかった母も、子を育てること数年の間に、心労疲労が重なって、憔悴(しょうすい)しきってしまう。』
D『水のように冷たい霜の夜も、氷のように冷え冷えとした雪の夜明けにも、母は乾いたところに子を回し自分は湿ったところに横たわる。』
E『子が懐(ふところ)で糞(ふん)をたれ、尿(にょう)で衣服をぬらしても、母は臭穢(しゅうえ)をいとわずに、自分の手をもって洗いすすぐ。』
F『食物を□に含んでは、苦いものは自分で食べ、甘くおいしいところだけ、子に口移す。』
G『また、子のために、どうしようもない事態におちいったときは、自ら罪を犯してでも、子を救おうとする。そして、そのためにいかなる罪も甘んじて受けとめる。』
H『また、子が遠くの地へ旅したときには、帰って来て無事な顔を見せるまでは、どこにいても子を案じ、寝てもさめても子を心配し続ける。』
I『自分が生きている間は、子にふりかかる災いはすべて代わって受けようと念じ、死んでからは霊魂となって子の身を守ろうと強く願う。このようなありがたい恩徳にどのようにして報いるべきであろうか。』
ところが成長して大人になると、声を荒らげ心をとげとげしくして父の言葉に従わず、母の言葉に反抗をもって報いる。妻をめとれば、妻だけを大切にもてなし、父母に背き続けて、あたかも恩のまったくない人に接するのと同じである。
ところで、昔から『衣食(いしょく)足(た)りて礼節(せいせつ)を知る』と云う言葉があります。しかし、これは何も外側だけは美しく着飾っておいしいものを美食家気取りで味もわからず意味のない見栄を張り、お金の高さと人の噂だけを美味贅沢のバロメーターだと錯覚し無駄な虚勢を張って、一流ホテルにレストランや高級料亭へと味覚音痴同士がせっせと通いつめ、形だけの美食に溺れ、ただ無駄な贅沢をすることではありません。
それについて、仏教にはすべての宗派を超えて、食事作法の最初に唱える食事作法に『食事(しょくじ)五観(ごかん)の偈(げ)』と云う五つの唱(とな)えごとがあります。
そのうちの最初の二つは皆さんにも直接関係がある次の言葉です。
それは、最初が≪一つには、功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り、彼(か)の来處(らいしょ)を量(はか)れ≫
ですが、その意味は『この食べ物が今この目の前に運ばれて来るまでには、どれだけ多くの人達の努力と手間がかかっているのだろう。しかも、それを今このように目の前に食事が運ばれて来るまでにどれだけ多くの人々の苦労と努力が払われたかを考えなさい』と云う意味です。
次が≪二(ふた)つには、己(おのれ)が徳行(とくぎょう)の全缺(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に應(おう)ず≫
ですが、その意味は『自分にはこの食事をいただくだけの資格があるだろうかと己に問い、よく考えてその食事を頂きなさい』と云うのです。
この二つだけでも非常に厳しい食事前の唱え事ですが、この他にも、あと三つの、仏道修行者としての食事前の厳しい唱え事があります。
この最初の二つの唱え事だけ見ても、先程の本当は味覚音痴なのに見栄と虚栄心を満たすだけのために、一流料理に群がる人達は、これでは一流シェフや一流の料理人達に対して失礼なだけでなく、この食材を育て提供してくれたた生産者や天地自然の恵みと、それを見守ってくれた神仏の恩を忘れた行為であり、それでは、仏教で戒めている、単なる三毒の内の一つ≪貪り≫に過ぎません。
そこで、かの≪沢庵和尚≫の『心に染みる八十八話』という国書刊行会出版・「牛込覚心」編著の『他人の飢えを知れ』と云う法話には、次のようにあります。
≪人皆(みな)、我餓(わがうえ)を知りて、人の餓(うえ)を知らず、故に人を憐(あわれ)むの心なし≫
その意味は… 自分の餓えはすぐわかるのに、他人の餓えは気付かないものだ。
だから、他人を憐れむ気持ちを抱きにくい。…と云う意味です。
この沢庵和尚の言葉を、見栄と虚栄心だけで味もわからずに高級料理を値段だけを唯一の目安にして、自己満足にひたっている人達に送るとともに、同じ沢庵和尚の法話集の中から『沢庵和尚の輪廻の話』から次の話を引用しますと≪薪(たきぎ)が尽(つ)くれば、火(ひ)も共(とも)に滅(めっ)するは、勿論(もちろん)なり。≫と云う法話があります。これを原文のまま読んでみますと…
沢庵和尚が、仏教の輪廻を問答しています。
「薪が尽きてしまえば、火も消えてしまう、というのは本当だ。それは『法華経』法便品(ほうべんぼん)に<無余涅槃(むよねはん)(有余・無余(うよむよ)=(有余)とは、余りがあるという意味で、不完全な状態を言い、(無余)とは、完全に成し遂げられた状態を言い、“涅槃”で言えば、煩悩を断じ尽くし心の束縛を離れても、まだ肉体が残っている以上、肉体上の束縛を離れえない涅槃を(有余涅槃)といい、肉体が滅して心身の束縛を離れた完全な涅槃を(無余程槃)と云うと「勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)」に書いてあります。)とある如く無余涅槃に入ること、薪尽きて火の滅するが如し〉と言っているのと同じだ …<でも、薪が消えるとき、別の薪に火を移せば、新しく燃えるのではないですか?>…<移せば燃える>…<人も、人の業も、同じですか?>…<そうだ。人も、業も滅して跡かたもないというのは誤りだ>…<火の形は滅しても、火の性は滅せずということですか?>…<その通り>…<滅しないのなら、なんで火が滅すると言うのですか?>…<火の“英気”が滅するのだ。これを火が滅すると言う。けれども火の“性”は万古(ばんこ)(永久に)滅することはない>…そこから、薪(たきぎ)や人(ひと)の“火(エネルギー)”を、“英気(えいき)”と称(しょう)し、ここから「英気を失う」「英気を養う」といった語を派生させてたのです。人の死は、単に、その人に与えられた「寿命」もしくは、「英気」が燃え尽きただけのことで、「火性」まで失っているわけではないということで、「寿命」や「英気」が尽きるのには、一切理由がありません。沢庵和尚のいう「天(法界)」の何らかの意思という他はなく、故に「天命を全(まっと)うする」と云うのです。
次は、冒頭の母の事例とは対照的な、元高野山真言宗管長で、総本山金剛峯寺第四百六世座主の『森寛紹大僧正倪下』が、自ら語るお母さまのお話しです。
『私の子供の頃のことです。年に一度のお祭りの日、母が五銭くれて「これで床屋へ行っておいで」と云います。私は母のバリカン散髪でも不満は無かったので、床屋はどうでも良かったのですが、滅多に貰えない五銭が嬉しくて、ずっしり重い白銅貨の五銭を握ると、村の床屋へ駆けだしたのです。ところが、どうしたことか、途中の駄菓子屋の店先でピタリと足が止まってしまったのです。
おそらくお祭り用に仕入れたのでしょう。ふだんはお目にかかれないような色とりどりの菓子が並んでいました。もう、この頃は床屋へ行く事などすっかり忘れてしまっていたのです。その菓子の中で一番目についたのが、大豆の表面に砂糖とメリケン粉をまぶした<ホウライ豆>と云う菓子でした。
子供心にどうしてもこの豆を食べたかったのでしょう。どうやって食べたのかは、夢中で良く覚えていませんが、ふと我に返った時には五銭全部がホウライ豆に化けてしまった後でした。「さあ、どうしよう」。散髪をしないで帰ればすぐに分かってしまうし、仕方なく夕方近くになってから家に帰り、母に「途中でお金を落としてしまい、今まで捜していたんだ」と嘘をついたのです。すると、母はすぐに提灯をとり出してきて「しょうがないねぇ、落としたんなら今から二人で捜しに行こう。朝になったら、拾われてしまうから」と言いながら、私をせきたてるのです。そして、母は、少しでも良く道を照らそうと、小さな提灯を目一杯に下げ、その明りを頼りに腰をかがめながら、床屋までの道を何回も行ったり来たりして、懸命に捜してくれました。しかし、いくら捜しても、すでにホウライ豆に化けてしまった五銭銅貨は、見つかる筈がありません。その時、母はすでに私の下手な嘘を見抜いていたにも関わらず、身をもって私を戒めてくれていたのです。』
≪森 寛紹 著『感謝のこころ』より≫
この一文を読ませていただいて、本当の母の愛とは何なのかを私達に気づかせてくれます、と云うのは、普通の母親ですと≪駄菓子屋で散髪代の五銭銅貨がホウライ豆に化けてしまった事を知った時点で何と云うでしょう。≫
ここが普通の母親と違うところです。やがて、高野山の管長にまで昇りつめられた猊下のお母さんです。すでにホウライ豆に化けておなかの中に入ってしまった五銭銅賃は、いくら探してもある筈がありません。それを百も承知の上で、自分の子の将来のために、真剣に探しながら幼い我が子に「ウソ」をつくことの善悪を身をもって気づかせ教育していたのです。さすが、やがて仏教界の頂点に昇りつめ、高野山の管長にまでなられた森寛紹大僧正猊下のご母堂です。
改めて真の教育の真髄≪気づかせる教え≫を学んだ人も多いと思います
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