【平成二十二年三月】の定例法話会・テキスト
『シッダールタは苦の本質を見抜いた』
≪人が悩み苦しむのは、自分本位に行動した自縄(じじょう)自縛(じばく)の結果である。≫
(お釈迦様‥・その9)
十二月七日の夜半、悪魔の執拗な誘惑を金剛のような強靭な意思と決意で見事に退けたシッダールタは、再び何事も無かったように深い禅定に入りました。
そして、十二月八日の早暁、深い禅定を終えたシッダールタは、地平線の彼方から神秘的な輝きを放ちながら、まるで生き物のように力強く昇ってくる「明の明星」を見て宇宙全体が大光明を放っている様に感じ、シッダールタ自身今までとはまったく違った新鮮で新しい心の視座が開け、これまで見えなかったものがはっきりと見えるようになり、遂に真実真理の法則を感得し、覚りを得られたと伝えられています。
その時の様子が経典には次のように記されています。
[十二月七日の夜半(やはん)、魔(ま)を降伏(ごうぶく)し終(おわ)りて塵漏(じんろう)無(な)き禅定(ぜんじょう)を尽(つく)せし後(のち)、天空(てんくう)、大光明(だいこうみょう)を放(はな)ち、即(すなわ)ち再度(さいど)、定(じょう)に入りて、真諦(しんだい)を思惟(しい)し自在(じざい)に諸法(しょほう)の宿命(しゅくみょう)を観察して、一切(いっさい)の衆生(しゅじょう)の過去(かこ)に造(つく)れる善悪(ぜんなく)の業(ごう)により来(き)たる転生(てんしょう)、かかる転生(てんしょう)により起(お)こる、貧富貴賎(ひんぷきせん)、寿命(じゅみょう)の長短(ちょうたん)、及(およ)び、氏素性(うじすじょう)の格差(かくさ)、皆(みな)、悉(ことごと)く明瞭(めいりょう)に知り、直(ただ)ちに、衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の大慈悲心(だいじひしん)を起(お)こして自(みづか)ら想う。一切衆生(いっさいしゅじょう)、真(まこと)の救済者(きゅうさいしゃ)に遭(あ)わず、五道(ごどう)に輪廻(りんね)し、その出(い)ずるべき道(みち)を知(し)らず。巡(めぐ)り遭(あ)うところ悉(ことごと)く虚偽(きょぎ)にして真実(しんじつ)在(あ)ること無(な)きに、虚偽中(きょぎちゅう)に横臥(おうが)し無知(むち)なるが故(ゆえ)の苦楽(くらく)を生(しょう)ぜん…]と。
以上でお分かりの通り、シッダールタは、十二月八日の早暁に突然お覚りになられたのではなく、既に前日の七日の夜半には『人々が苦しみ迷うのは、真の救済者に遭うことが出来ず、或いは真の救済者に出会いながらもそれに気付かず、若しくは、その教えや適切な助言や忠告に耳を貸さず、自分本位に行動した結果自縄(じじょう)自縛(じばく)の結果、全ての事に疑心暗鬼となるか、意気消沈して迷いが迷いを呼び、出口の無い心の暗路を果てしなく迷走、ついにはその迷路の中で、もがき苦しみながら、挙げ句の果てが悪魔の囁く嘘偽りの教えに引き込まれ、吸い寄せられて益々苦の淵へと沈み込んでいくからだ。』と看破されたのです。
シッダールタは、この様に苦の本質を見抜くと共に、私達に対し≪諸法には宿命があり、その宿命とは、私達が遠い過去より引き継いだ数々の善業悪業が、自らの体内で「業(ごう)」即ち遺伝的因子となって、私達の一生を通じ、精神的にも、肉体的にも、多大の影響を与え続け、やがては遠い未来へとその「業」は引き継がれて行く、すなわち私達の心の働きは、三世(過去・現在・未来)の宿業、宿命と現実の出来事との葛藤(かっとう)の狭間(はざま)の中で、天地自然の摂理とその実相を見失い、ともすれば激しく揺れ動く心の動揺のため、日々新しい「身しん・語ご・( 口 )・意い」三業の悪業を積み重ねつつ、己の進むべき道を暗中模索し続けるのだ≫と、示されたのです。
このことは、道元禅師(どうげんぜんじ)がその著(ちょ)≪修証義(しゅしょうぎ)≫の中(なか)で『今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知らず、善悪(ぜんなく)を弁(わきま)えざる邪見(じゃけん)の輩侶(ともがら)には群(ぐん)すべからず、大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どおり)歴然(れきぜん)として私(わたくし)なし、造悪(ぞうあく)の者(もの)は堕(お)ち修善(しゅぜん)の者(もの)は昇(のぼ)る。』と、同じように述べておられます。
このように、私達人間の心の迷い、即ち苦の根源は、過去現在未来にわたる宿業宿命に依って定められたものであり、この根源的本質は、私達人間がこの世に生を受けた瞬間、既に定められていて、私達個々の意思によって変えることは出来ないのです。
仏教では、この様な人間の根源的本質を≪性(しょう)≫と云い、この根源的本質の≪性≫は、私達がこの世に生を受けた瞬聞から、日々に、時々刻々と≪身・語・意≫の三業を積み重ねる事により、私達の心と体の中に蓄積された≪業≫となり、各人各様、自らが創ったその≪業≫の深さ重さと働きに応じて、夫々に個別の人格を形成し、それが人相や手相や風貌や個性や言動として表に現われて来ますが、この様に表面に現われたものを≪相(そう)≫と云います。
従って、シッダールタが真実の覚りを開き、仏陀釈尊と成られた時の御心の内を「性(しょう)」とすれば、後にサールナートで五人の比丘達に初めてされた説法をも含めて、その後に、言葉によって説かれた全ての教えは、ただ一つの例外もなく「相(そう)」と云うことになります。言い換えれば、仏陀釈尊がブッダガヤーでお覚りになられた内容は、釈尊だからこそ感得し得た天地自然森羅万象の、あらゆる摂理に基づいた絶対真理であって、如何に釈尊が初転法輪から四十五年にわたって、その真理の法を説き続けられようと「ブッダガヤー」で、十二月八日の早暁(そうぎょう)天空(てんくう)に輝く大光明(だいこうみょう)を仰ぎつつ感得(かんとく)された『究極(きゅうきょく)の真理(しんり)』は、到底、文字や言葉では表現し難い、深々(じんじん)微妙(みみょう)の神秘(しんぴ)の法ですから、当然、言葉による説法には限界があり、その言葉によって明らかにされた、限られた教えの部分を顕教(けんきょう)と云います。
反面、釈尊が最後まで文字や言葉では顕(あきら)かにされなかった「究極の真理と法」の部分が《正純密教》即ち『真言秘密の教え』であり、この秘密の教えを今日まで伝承して来たのが、弘法大師の伝える『真言密教』であり、従って、この真言密教に対して、いわゆる顕教(けんきょう)は、文字や言葉で顕(あらわ)しうる教えである、と云う事になる訳です。
それでは、仏陀釈尊が言葉で顕かにされなかった部分とは、どう云う教えなのでしようか・‥。
この事に付いて、正統密教≪第八祖≫で、真言密教開祖の空海弘法大師は『密蔵(みつぞう)は深玄(しんげん)にして翰墨(かんぼく)に載(の)せ難(がた)し、更(さら)に図画(ずが)を仮(か)りて悟(さと)らざるに開示(かいじ)す。』と、言われていますが、その意味は≪真言秘密の教えは、深々(じんじん)微妙(みみょう)にして難解であるから、とても文字や言葉では表し難いので『図画=(曼荼羅)』の助けを借りて、未(いま)だ悟(さと)ることが出来ないでいる人々の為に、真理の教えを解き示すのである。≫と示されたのです。
ここでもう一度、釈尊が涅槃に入られた地≪クシナガラ≫で、最後に云われたお言葉を振り返ってみますと、今、まさに涅槃に入ろうとする仏陀釈尊に対し阿難陀(アーナンダ)をはじめ、その場に居並ぶ大勢の比丘(びく)達が、次のように最後の教えを求めています。
『私達は今まで、お師匠様の尊い御教えとお導きに依って、正しい道を歩んで来ることが出来ました。しかし、これからお師匠様亡き後を、私達はどうして生きて行けば良いのか分かりません。どうぞお教えください…。』と、頼みました。
この弟子達の問(とい)に対して、釈尊は次のように答えています。
『自らを灯明(ともしび)とし、自らを依(よ)り拠(どころ)とせよ…。法(ほう)を灯明(ともしび)とし、法を依(よ)り拠(どころ)とせよ…。決して他を依(よ)り拠(どころ)としてはならぬ…。心(こころ)して道(みち)を完成(かんせい)させなさい・‥。』と。
この釈尊のお言葉の最後の『心して道を完成させなさいぃ』と云う部分が、実は密教にとっても、顕教(けんきょう)にとっても、非常に重要な意味を持っているのです。それは…もし釈尊が、ご自分がお覚(さと)りになられた全ての真理と、そこへ到達する全ての道を、今までに余す所なく、お弟子達に伝えていたとすれば、当然、道を完成させるための、あらゆる方法も教えておられる訳ですから『心して道を完成させなさい…。』と、云われる事はなかった筈です。
又、一方では、一部の法華経信奉者の間に伝えられている伝説の中の言葉に、釈尊が今まさに法華経を説かれようとした時の言葉として≪四十余年未顕(みけん)の真実(しんじつ)≫と云う有名な言葉があります。
しかし歴史的事実から考えてみますと、全部で二十八品(ほん)ある法華経が実際に完成したのは、どんなに古いものでも、紀元ニ世紀以後の大乗仏教運動の中で成立していますので、釈迦が≪クシナガラ≫で涅槃に入られたのが、紀元前五百年頃ですから、如何に釈尊と云えども到底不可能なことで、これはあくまでも信仰上の伝説として受け取るべきでしょう。
従って釈尊は、直接法華経を説かれたのではなく、その心を説かれたのであり、釈尊自らが言葉で伝える事が出来なかった部分、即ち、深遠なる究極の覚りの真実真理の内容を、比丘達が自らの修行と努力に依って感得し、究極の覚りを完成する事を求めたのです。
そして、遂にこの真実真理の究極の法へ到達する道を見事に完成させたのが、正統密教第八祖の弘法大師空海なのです。そして、この、お大師様が感得し完成された、お釈迦様が言葉で伝えられなかった部分‥・即ち≪真実真理秘密の法≫とは、絶対真理の本質であり、これを『本性(ほんしょう):本来具(そな)わっている性質』として、言葉では表し難い深遠な真理の法を、お釈迦様は、あらゆる階級の数多くの人々に伝えるため、それらの人々の理解度にあわせて、分かりやすいように、方便として様々な比喩(ひゆ)を用いた教えが数多く説かれたので、これを対機(たいき)説法と云い、仏教の経典の数が多くなった理由にもなっています。これを、もう少し分かりやすくお話しすると、例えば、私達が自分自身の運勢を考えるとき、最も重要なのは、私達の一生の運命を支配し、その全ての働きの根本になる「本質・本性」を導き出す為の要因は、例えば「生年月日と時間」であり、これに依って私達は生涯不変で、しかも、運命推移の根元になる「性(しょう)」が、高度で複雑な鑑定方法の「根本命式」という形で示(しめ)されるからです。この場合、私達が特に肝に銘じて置かなくてはならないのは、この『根本命式』中に秘められた宿命や宿業の示す暗示が、私達の一生の運命の推移を洞察する基本となる出発点であり、その進路が私達の意思とは無関係に、既に定められていると云うことでしょう。
そして、このように示された『根本命式』が私達に宿命や運命として与えられた、私達の生涯を支配する『根本性(こんぽんしょう)』と云うことになるわけで、私達は、この天地自然から与えられた『根本性』を謙虚に受け入れて、これをスタート台として、この世に生を受けた自分を取り巻く周囲の環境や、自分が接する人々との関わり合いや、様々な条件の変化に対応する事に依って蓄積された、運命の軌跡の内面的な隠れた部分が、自身の手や顔や姿や形として表(おもて)に現れた状態を「相(そう)」と云います。さらに、もう一言付け加えますと、私達が自分の人生の将来を考えるとき、もっと幸せになりたい、出世もしたいし、名誉も欲しい。立派な家にも住みたいし、財産も増やしたい、と願うのはごく自然な人間の欲求だと思います。
しかし、その願望が自己中心的に強ければ強い程、私達は≪根源的煩悩≫である『貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)』の三毒の病に冒され天地自然の摂理や、ご先祖達の超意識世界の啓示を通じて与えられた遺伝的宿命である『根本性』の適性範囲を大きく逸脱する事になり、それは、所謂(いわゆる)『己(おのれ)を知らず、応分(おうぶん)を弁(わきま)えぬ、不逞(ふてい)の輩(やから)の高望(たかのぞ)み…』と云う言葉通りに、その願望は空しく潰(つい)え、懸命の努力は徒労(とろう)に終わり、残念ながら己の無知が招いた不注意や過信によって、自らの運気の流れや、能力の限界を越えた、身の程知らずの無謀な挑戦をした事による当然の帰結として、やがて挫折、敗退、計画中止と云う事になるのは火を見るより明らかでしょう。
この様に≪生々流転(しょうじょうるてん)≫する人間の心の働きによって起こる、全ての≪苦≫を生みだす『真実真理の根本法則』を見極められた釈尊(シッダールタ)は、自らサールナートまで足を運び、嘗(かつ)て「ブッダガヤー」で覚りを得る直前まで、前正覚山で苦行を共にした、五人の修行者達に対して初めて法を説かれたのです。(これを初転法輪(しょてんぽうりん)と云い、八相成道(はっそうじょうどう)「降兜率(ごうとそつ)・入胎(にったい)・出胎(しゅったい)・出家(しゅっけ)・降魔(ごうま)・成道(じょうどう)・転法輪(てんぽうりん)・入滅(にゅうめつ)」の中の一つで、最初に説かれた法なので≪初転法輪≫と言うのです。)
その法(ダルマ)とは、四諦(たい)八正道(苦諦くたい・集諦じったい・滅諦めったい・道諦どうたい)と、十二囚縁(いんねん)(無明むみょう・行ぎょう・識しき・名色みょうしき・六処ろくしょ・触そく・受じゅ・愛あい・取しゅ・有う・生しょう・老死ろうし)と云って、今日私達が最も親しんでいる「般若心経」にも説かれている仏教の根本の教えであり、これが、今日私達が全ての仏教各宗派を通じて、有り難い御教えが説かれている全ての経典の基本になったのです。
私達がお釈迦様からこの御教えを頂いて二千五百年になりますが、未だに数多くの迷える人々があとを断ちません。それには、色々理由もあるでしょうが、まず第一に考えられることは、お釈迦様の教えを正しく伝えるべき、それぞれの時代の先徳の方々が、あまりにも難解な理論に固執するあまり、本来お釈迦様が救おうとされた、悩める者、迷える者、無知なる者達の事を忘れ、一部の特権階級の人々の仏教に片寄ってしまった為に、私達一般大衆がついて行けなくなった為ではないでしょうか。
この点について「維摩経(ゆいまきょう)」には、この経典の主人公で、在家の信者でもある、ヴィマラキールティ(維摩居士ゆいまこじ)が、仏教理論を戦わす出家者や菩薩に対して『あなた達はその様に理論にばかり片寄っていると、仏の教えの本質(性しょう)を見失ってしまいますよ…』と忠告する様子が記されています。
やがて我が国では、戦乱の時代を迎え、この世に生きる希望を見いだせず、田畑を失い家を失って混乱する大衆の心を手っ取り早く導くため、高僧達は「我々は凡夫であるから、只ひたすら仏を信じて一心に念じなさい、そうすれば必ず阿弥陀如来様がお迎えに来て、極楽浄土へ連れて行って下さる」と教えたのです。
仏教では、どの宗派でも「天地自然一切の物には全て仏性がある」と説いていますが、もしそうだとすれば、ここで一つの疑問が生じてきます。
それは、一方では世の全てのものに仏性有りと云いながら、他方では我々は罪深き凡夫であるから、仏様が哀れんで救って下さるのだ、と云っているのです。
たしか、キリスト教でも我々人間は罪深いと言っていますが、これでは如何に方便の教えだからと云っても、考え様によっては、我々は世の中で一番劣っていると云われているのだと、受け取る人が居ても決して不思議ではありません。
仮に私達人間が、自らの欲望や煩悩や、その愚かさの故に凡夫と呼ばれていて、この世で悟りを得て仏に成るためには、命懸けの修行が必要だと云う事であれば、一般大衆は生きている間は絶対仏になれないし、自分達は死ななければ仏になれないのだ、と受け取られても仕方がないかも知れません。
しかし、これでは折角お釈迦様が人間如何に生きるべきかと云う教えを残されても、大衆の耳には届かず、大衆凡夫は「生きている内は仏に成れない。」と、日々俗世間の喧騒の中で迷い、悩み、苦しみ、進むべき道も見えず、只、徒(いたずら)にオロオロするだけではないでしょうか。ところが、お大師さまの『真言密教』では、人間は本来生まれながらにして『仏性』があるのに、それに気づいていないだけなのである。従って、私達もそれに気づき、仏と一体になれば、≪欲望も煩悩も待った≫その身そのままで仏に成れるとお説きになったのです。
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