【平成二十二年二月】の定例法話会・テキスト
『妖艶な誘惑も執拗な脅しも退けた王子』
≪魔王の指示で「シッタールダ」の覚りを邪魔する千人の息子と三人の娘達≫
(お釈迦様‥・その8)
厳しい苦行が、決して覚りへの道では無い事に気付いた「シッダールタ」は、六年の間苦行を共にした五人の仲間とも決別し、前正覚山を下りて尼連禅河で身を清め、永年にわたる苦行の垢を洗い落とした後、村の娘「スジャータ」の差し出す乳粥で、ようやく気力と体力を取り戻し、ブッダガヤーへ向かいました。
ブッダガヤーヘ着いた「シッダールタ」は、以前の苦行の時のように、必ず覚りを得るのだと云う力みも無く、身も心も極めて自然な姿で、ピッパラ樹の下に座りました。前正覚山での苦行の際には「シッダールタ」と五人の修行者達は、昼も夜も、来る日も、来る日も、固い石の上に座し、その身を樹下に臥せる、と云う状態が毎日続きましたが、今度は、一転して柔らかい草を集め、心地好く座れるように座を整えてから、静かに結跏趺坐(けっかふざ)し、穏やかな表情で金剛のような瞑想に入りました。
しかし、坐禅はどんなに環境が整っていても難しいもので、例えば、修行中に要求される最も大切な精神の集中などは、その場の条件が、暑くもなく、寒くもなく、適度に空腹でなく、周囲が静かであったとしても、それだけでは、坐禅の条件が完全に充たされたとは云えません。
まして、欲望や煩悩の誘惑から完全に離れ、全ての事柄への執着(こだわり)を捨てて、何ものにも囚われない、完全な禅定(さとり)の境地に自分の心を置くとなると、これこそ、本当に至難の業と云えるでしょう。
しかも、仮にその行者に五欲の快楽をも含めて、過去に数多くの異性と接した経験があるとすれば、その異性の姿が坐禅中の自分の脳裏の中にちらついて、真剣に坐禅だけに精神を集中する事など簡単に出来るものではありません。
その意味ではシッダールタとて決して例外ではなく、出家前の宮殿での五欲の快楽の影響でしょうか、覚りの境地に近づくに従って、次々と悪魔の誘惑が始まり、美しい女性が妖艶(ようえん)な姿で、しかも媚態(びたい)の限りを尽くして、シッダールタの覚リの邪魔をします。
この時の様子が、仏典には次のように記されています。
「シッダールタ」が、ピッパラ樹の下で、金剛(こんごう)のような坐禅を開始すると、第六天(天にある欲界)の魔王の宮殿では、今まで誰も経験をした事のないような、激しい激震に襲われ、上を下への大騒ぎになりました。
それは、ブッダガヤーのピッパラ樹の下で坐禅をしているシッダールタが、既に完全な禅定の境地に入り、今すぐにでも真実真正の道を極めて、完全な覚りを得ようとしているからでした。
もしも、シッダールタがその真実真正の道を極め、多くの迷える人々を救い始めると、魔王一族としては自分達の仕事が無くなってしまいます。
魔王は慌てました…。これ迄にも何回となく、シッダールタの覚りを邪魔するには、どうすれば良いかと考えていたのですが、もしも、そのような事になったら大変です。
ここは、何としてでも、シッダールタが本当の覚りを得ない内に、坐禅の邪魔をしなくてはなりません。
魔王の聞く処によると、坐禅は人間の五欲 [ 眼(げん)・ 耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)]即ち、この五つの感覚器官を刺激し誘惑される事によって起こる、全ての欲望と煩悩の妄想を捨てて、唯ひたすら無心になって座り、真実真理の道を明らかにし、無上菩提の覚りの境地を得る為の修行法だと云うことでした。
一族存亡の危機を感じた魔王は、さっそく自分の千人の男の子達と、三人の女の子達を呼び集めて相談します。
「いいか、皆のもの良く聞け、今、下界のブッダガヤーと云う処で、間もなく覚りを開いて、我々の仕事を邪魔しようとしている者が居る。もしも、その修行者に覚りを得られてしまうと、悩みを持つ、多くの人々の心が救われてしまい、人の心を惑わし悩ませると云う我々の唯一の仕事が、この世から無くなってしまうが、お前達は、どうしたら良いと思うか。」
魔王の話をじっと聞いていた子供達の中から、まず最初に五百人の男の子達が立ち上がり、血相を変えて大きな声で云います。
「お父さん!それは一大事です…。若し、そのような事にでもなれば、心に迷いを生じる人が一人も居なくなって、私達は仕事が無くなってしまいます。今すぐその修行者の処へ行って、絶対に覚りを得られないように、あらゆる手を使って邪魔しましょう。さあ!何をぐずぐずして居るのですか。早く行きましょう。」と、皆を急き立てます。
すると、今度はそれを聞いていた他の五百人の男の子達が、一斉に立ち上がり、激しくいきり立つ五百人の男の子達を制して、父、魔王に進言します。
「ちょっと待って下さい…。お父さん、私達は今までにも、数多くの善良な人々を迷わせ、散々人を不孝にして来たではないですか。もうこの辺で、いい加減に悪さをするのを止めて、その修行者の弟子になって、今度は、世の為人の為になる事をしようでは、ありませんか。」と云いました。
魔王は困ってしまいました。自分の千人の男の子達の意見が、五百人ずつ真っ二つに別れてしまったのです。そこで魔王は、今度は三人の娘達に考えを聞きます。すると、娘達は口を揃えて「私達は、お父様のお考えに従います。」と答えました。それを聞いて、魔王は決断しました。
「よしっ!今から、皆でブッダガヤーヘ行き、あの修行者シッダールタが、絶対に覚りなんか得られないように、徹底的に邪魔をしよう…。
ところで、その邪魔をする方法だが、以前にあの修行者が、まだ遠い北の国のカビラ城の王子だった頃、来る日も、来る日も、昼となく、夜となく、大勢の美女達に囲まれて、五欲の快楽に耽っていたと聞く。今でこそ、心静かに深い禅定に入っているが、彼とて生身の一人の男だ。今なら、まだ完全に覚った訳ではないのだから、多分、美しく、魅力的な女達が、悩殺的で妖艶な色香を漂わせながら誘惑すれば、如何にシッダールタと云えども昔を思い出し、心が乱れて覚りが得られなくなるに違いない。」
魔王は、このように呟いた後、三人の娘達を手招きして伝えます。
「まず最初は、お前達三人が行きあの修行者を誘惑して心を乱して来なさい。」
父魔王の命によって送り出された三人の娘達[楽見(らくけん)・悦彼(えっぴ)・渇愛(かつあい)]の美しさは、魅力的な美女揃いで知られる天上界でも一際群を抜き、しかも、男心を惑わす事にかけては天才的な才能を持ち、まさに、この三姉妹の右に並ぶ者無しと云われる程の、美貌と妖しい魅力を兼ね備えた美女達でした。
この三人の娘達が、坐禅中のシッダールタを誘惑する様子が「大智度論」巻第十四、初品第二十四(竜樹の著で大品般若経の注釈書全百巻)に、次のように生々しく書かれています。
「魔王の三人の娘達は、一人一人実に妖しげな色気があり、ひとたび男心を捕えると、その魅力で完全に虜にして、決して離れさせない妖艶さと、巧みに男心に、媚びる術をも身に付けています。
持ち前の美貌と、男を悩殺せずには置かない、自分達の魅力に自信を持つ三人は、深い禅定に入っている坐禅中のシッダ一ルタを、誘惑しようと近寄って行きます。しかし、シッダールタは、三人の娘達には目もくれず、全く心を動かされる様子もなく、完全に金剛不壊の状態で、静かに坐禅を続けていました。
完全にシッダールタに無視され、考えても見なかった結果に終わった三人の娘達は、人一倍自信があっただけに、このまま引き下がったのではプライドが許しません。
そこで三人は、額を寄せ合って考えた末、次のことに気が付きました。
「男と云うものは、女性に対する好みが、人によって違うものだ。
例えば、ある人は少女が好きだと云うし、ある人は年ごろの女が良いと云い、又ある人は中年の女が良い、否、年増の女が良いと云う。さらに、背が小さく小柄な女が可愛いという人や、反対に背の高い方が好みだと云う人も居る。と思うと、一方では太った女が良い、痩せた女か好きだ、色は白くなくては駄目だとか、少々色が黒くても健康的な人が良い、等、各人各様の好き嫌いがあるのだから、あらゆる女性の姿に変化して、徹底的に迫ってみよう」
このように決めた三人は、それぞれが百人ずつの魅力ある女性の姿を作り出し、今度は思いっきり肢体をくねらせ、肌も露わな、完全に裸体に近い姿で、シッダールタを篭絡しようと迫っていきます。
その時、女達のあまりの執拗さに、ついに堪り兼ねた密迹金剛力士が現われ、恐ろしい形相で眼を瞋らせ、女達を叱り付けます。
「お前達は一体何者なのだ、何故にそのような格好をしてまで、静かに坐禅をしている者を惑わし、誘惑しようとするのだ。」
しかし、さすがは魔王の娘達です。一瞬怯んだようには見えましたが、この程度の事では引き下がろうとはしません。なおも執拗に、何が何でも絶対に誘惑して見せると云う意気込みでシッダールタに迫っていきます。
その時、初めてシッダールタが、三人の娘達に向かって口を開きました。
「お前達の身体は、まるで穢れた草むらの中の、汚く腐ったものが積み重なった厠の様な物ではないか、お前達は、私がそのような、汚い物を楽しめると想っているのかッ!」
予想外に厳しい、「シッダールタ」の叱責の言葉に女達は驚いて逃げ出します。
さすがシッダールタは、私達凡夫とは違います。
やがて真実真理の覚りを得られて、間もなく仏陀になられる方です。
最初から、この女達の素性も、汚れた心の内も、すっかり見通しておられたのです。通常、私達のような凡夫の場合は、シッダールタのように、過去に五欲の享楽や快楽の経験があった場合、この様に魅力ある美女達が、肌も露わに、妖艶な媚態の限りを尽くして誘惑してくる娘達の誘いに勝つと云うことは、道を究め尽した聖者か木石ででもない限りは、全く不可能に近い至難の業と云えるでしょう。
これは単に修行中の事だけに限らず、日常私達の身の回りの出来事にも云えることで、以前、テレビのコマーシャルの中で「私は、これで会社を辞めました」と云って小指を立てて見せた一コマがあったり、更には、女性問題で一国の首相と云う重要な地位迄も棒に振った人も居た程ですから、如何に私達にとって色欲の絡む異性問題や五欲(眼・耳・鼻・舌・身)を通しての誘惑に負けた欲望の働きが、目的達成の障害になったり、身を誤る元になるかが分かると思います。
後に仏陀釈尊となられたシッダールタは「衆病の中で、女病は最も重し」として、男性修行者にとっては、女性の魅力の虜になってしまう「女病」が、修行中の最大の障害となるから「修行者は、真っ赤に焼けた鉄の玉を、自分の目の中に突っ込んででも、決して、女性を邪(よこしま)な心で眺めてはいけない」と云い続けておられました。≪密教は、本来清らかなのを汚したのはお前だ!と言う≫
仏教の修行は、一般的には、覚りを得る事が最終的な目的である、として受け取られていますが、弘法大師空海の御教えである真言密教では、釈尊の本当の教えは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」であり、修行者は本来覚ること自体が「最終の目的」なのではなく、その覚りを積極的に活用し、欲望と煩悩にまみれた衆生を、如何に「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」の欲望も煩悩も持つその身そのままで救済する、と云う事が最も大切な「究極の目的」であると云う教え、と受けとめているのです。
この事は、お釈迦様がブッダガヤーで、既にお覚りになられた後、暫くの間じっと瞑想しながら、この難しい真理を、どう人々に説き、人々を救うべきかと思い悩んでいた時、突如として≪梵天≫が現われ「あなたは既に仏陀となられたのですから、一時(いっとき)も早くその真理の法を説き、人々をお救い下さい」と懇願されたので、すでに仏陀となられた「シッタールダ」は、ただちに漉野苑(サルナート)へと足をはこび、そこで初めて法を説きました。これを≪初転法輪(しょてんほうりん)≫と云い、これが仏陀となられて最初の説法です。こうして仏陀は衆生救済のため具体的な第一歩をふみ出されたのです。このようにお覚リを得られて仏陀となられた「シッタールダ」も、その道のりは決して平坦ではなかったのです。
その第一は、若き日の四門出遊(しもんしゅつゆう)を通じ「生老病死(せいろうびょうし)」の苦を知り、次に出家直後に訪ねたパガワ仙人の修行法は自ら求める真正解説(しんしょうげだつ)とはあまりにも異なり、自らが求めるものが見つからずに悩む「シッタールダ」は、パガワ仙人の勧めもあって、王舎城(おうしゃじょう)へ行き「アーラーラ・カーラーマ」と「ウッダカ・ラーマプッタ」の両仙人を訪ね教えを求めますが納得できず、そこで自らが修行もせずに教えを求めようとした事の間違いに気づき、前正覚山での六年にも及ぶ壮絶な苦行に入ったのです。しかしその言語を絶する壮絶な修行も、それは単なる欲望と煩悩を押さえるだけの意味しかないことに気づき、真の覚りである解脱真正(げだつしんしょう)の道には程遠い事を悟り、先月お話ししたように、意を決して前正覚山を下り、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴して身を清め、村の娘スジャータが供養する乳粥で元気を取り戻し、ガヤーのピッパラ樹の下に座り瞑想に入り、数々の誘惑や執拗な脅しをも退け、ついに仏陀となられたのです。
その仏陀となられた「シッタールダ」の尊い教えを伝えようとして、十七年もの歳月をついやし、天竺から仏典を待ち帰った西遊記で知られる唐の玄奘三蔵の、極度に緊張した精神的重圧と過酷な道のりを乗り越えた「シルクロード行脚」をテーマにした≪仏教伝来≫をはじめ、仏教を題材にした雄大で叙情あふれる数多くの名作を残し、昨年末、七十九歳で亡くなられた『平山郁夫画伯』は、東京芸術大学の学長を務めるかたわら、シルクロードをはじめ、東南アジアや世界各地の文化遺産の保護修復にも力を入れて尽力し大きな功績を残されました。
特に画伯は仏教絵画の世界やシルクロードの幻想的な風景画などで日本画の世界に新風を吹き込み、一世を風靡した偉大な画家『平山郁夫画伯』が、広島での被爆者だったことを知る人は意外に少ないかも知れません。
その平山画伯は、どんなに絵の題材に困ったときでも、決して原爆の絵は描かなかったと云われています。その平山郁夫さんは、少年時代の十五歳の時に広島で被爆し、以後二十年間、決して広島には帰らなかったそうです。
その平山画伯が、昭和五十二年八月、広島市で行なわれた原爆忌の供養式に初めて参列したのは四十七歳の時だそうですが、その帰路の東京に帰る新幹線の車中で、窓に息を吹きかけ、指で不動明王を画いたそうです。
それから二年後、この不動明王が原爆投下直後の広島を画いた『広島生変図』として甦(よみがえ)り発表されました。そこに画かれているのは、街を焼きつくす業火の渦巻く中に、憤怒の形相も荒々しい『不動明王』が怒りの表情でこの街中に広がる焔の海を画面の右上から、愚かな人間の行為を≪この馬鹿者が!≫と睨(にら)みつけている様子は、その鬼気迫る迫力と共に、平山郁夫画伯の怒りや悲しみが凝縮している様に感じられる作品ではないかと思えてなりません。
言い換えれば、これは仏の怒りや悲しみを代弁した作品なのかも知れません。
厄除け厄払いお祓い除霊護符呪詛返しの未勒館「密教と四柱推命」
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