【平成二十一年六月】の定例法話会・テキスト
>毎日何してるの?』と彼は聞いた
≪すると・・・彼女は一瞬 「彼」を見つめながら『生きてる・・・』と答えた。≫
先月の≪館主よもやま話し』に書いた『余命一ケ月の花嫁を読んで』と云う感想文ですが、その後、日が立つにつれますます彼女が言う≪生きてる‥・≫とは何だろうと考えるようになり、仏教の教えと、現実との狭間の中で自問自答しながら、宗教的には受け入れられても、現代人にとって科学的には納得できない事を、どのような形で皆さんに説明すればよいか、と頭を悩ましていました。
そこで思い出したのが、以前、読んだ事がある≪ゾウの時間、ネズミの時間≫と云う本の事が頭に浮かび、本箱の隅から捜し出して読み返してみました。
すると、第一章『心拍数一定の法則』の中に、哺乳類は≪象からねずみ≫まで、一生の間に心臓が打つ鼓動の回数は、百年生きる「ゾウ」も、数年しか生きられない「ネズミ」も、そして他のどの哺乳類も全て二十億回で、しかも一呼吸につき心臓は四回打つと云うことが書いてありました。と云うことは『禅』の教えで言う≪一怒一日≫と同じで、一回怒ると心拍数が早くなって、一日命が短くなると云っている事と同じと云うことになります。とすれば、二十四才の若さで天国へ召された『彼女は』ガンと云う悪魔のために、本来鼓動すべき心臓の働きの大部分を、ガンに邪魔され使い残して逝(い)ったと云うことでしょう。
ところで、今回のテキストをワープロに打ち込んでいる時、以前にも一度やってしまった大失敗を、またもしてしまったのです。それは、せっかく、ほぼ半ばまで書き込んでいたこのセミナー用のテキスト原稿を、文章の内容確認のため途中で「プリント」しようとして、ウッカリ全部消してしまったのです。
それは、ふとした勘違いから「キー」を押し間違えた事から始まりました。せっかく、苦労して打ち込んだデーターが消え始めた事に気がついたときには、すでに手遅れであわてて「NO!ストップ!」と云いながら「ストップ・キー」を叩きましたが、時すでに遅く、みるみるデーターは画面から消えていきます。
止めようとしても止まらない「ワープロ」の画面を睨み付けながら、思うようにならない事の推移に、心の中でやり場のないイライラを感じていました。
お釈迦様は、このように自分の思うようにならないことは「苦」である。
しかも、世の中で自分の思い通りになることは、ほんの少ししかない。と、おっしゃっています。その意味では「人生は苦」の集合体であると言えるでしょう。
このお釈迦様の言葉からすれば、今、目の前のワープロの画面から、私の意思に反してデーターが次々と消え去っていく、これは私にとって大いなる「苦」以外の何ものでもありません。正しく手順を確認しなかった事が原因です。
しかし、考えてみれば私達の身の回りには、自分の思う通りにならない事がたくさん有ります。例えば、男が女に生まれ変わりたい、女が男に生まれ変わりたい。そして、もっと美しくなりたい、いつまでも若々しく年を取りたくない、と、考えることもあるでしょう。その他にも、欲を言えばきりがありませんが、それらは、極くほんの一部を除いて、そのほとんどは実現不可能な事ばかりです。
仏教の世界では「山川草木、皆、仏性あり」と云って、この世に無駄なものは一つもなく、全て大日如来の御心の顕現であり、それぞれが「因(いん)」により、「縁(えん)」の助けを借りて、この世に「果(か)を顕わしたものであるから、それぞれがお互いに関わり合いを持ってこの世に存在するのである。と、言っているのです。
したがって、私達は何事も程々のところで我慢をし、他人とのかかわりの有るものは、お互い譲り合わなければなりません。
何でも自分勝手に行動し他人をかえり見ず、自我のコントロールをも忘れ、しかも、お蔭様でと云う感謝の心を失ってしまっては、天地自然の理法に逆らい、神仏の御心に反すると云うことになり、最後には自らの行為の報いを受けるか、後々の世に自分の子孫が宿業として、その償いをしなければならないと云う事になります。仏教には「心曲がれば、影(かげ)曲がる」と云う言葉があります。
私達は、この言葉を肝に銘じて、間違っても「惜からざらめや、悪を作りながら悪に非らずと思ひ、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて」と、道元禅師のお諭しにもあるように、自分の子孫に迄も及ぶような行ないには、充分気を付けなければなりません。今も、こうしてワープロを打ち直しながら感じていることですが、私達は日常思い違いや勘違いで、どれだけ多くの失敗や無駄をしているかということです。そして消えてしまったワープロの文章を、今、必死に思い出そうとしてもなかなか思うようにいかないもどかしさに、少々苛立たしさを感じています。
これは、私にとっては確かに「苦」以外の何物でもありません。
しかし、考え方によっては、先月の勉強会の時、丁度「苦」についてのお話しをしたばかりでしたのでこれは仏様の「この辺で、お釈迦様が最初にお悟りになられた、四諦(したい)八正道(はっしょうどう)(苦諦くたい、集諦じったい、滅諦めったい、道諦どうたい)と、十二因縁(じゅうにいんねん)の説明と、密教に至る仏教の流れのお話しをしなさい。」と、云うお知らせではないかと気づき、それで消えた前の原稿を思い出せないようにしているのだ。これは仏様の意思なのだ。と思うことにしました。
そこで今回からは、お釈迦様がお悟りになられてから、初めてその「法」を説かれるまでを順を追ってお話ししてみたいと思います。
先ず、お釈迦様が、まだ「ゴータマ・シッダールタ」と云われていた修行時代のことです。その「シッダールタ」が、秘かに「カピラ城」を出て、まず最初に出会ったのが、来世に生まれ代わるためだけに厳しい苦行をしていた聖者で、真理を求める「シッダールタ」は、その聖者の勧めもあって、マガダ国のラージャグリハ(王舎城)に着き、当時バラモンの學匠の中でも、最も徳の高いと云われていた「アーラーラ・カーラーマ」と「ウッダカ・ラーマプッタ」と云う二人の仙人に出会ったのです。しかしこの二人の仙人の答えは、ただ難しい理屈を繰り返すばかりで「シッダールタ」には、この最も徳の高いと云われているお二人が、長い修行を積んで得たものは、たったこれだけだったのかと失望させるだけでした。 やがて「シッダールタ」は「無上菩提(むじょうぼだい)を証し、一切種智(いっさいしゅち)を成ぜん」ためには、他人から教えを授かるだけでは永遠に不可能であって、真実の真理を会得しようとすれば、自ら厳しい修行をし、自らが身をもって体得しなければならない、とお気づきになりました。
しかし、前正覚山での苦行は、言語を絶する厳しいもので、すでに苦行に入っていた「カウンジンヤ」「マハーナーマン」「ワシュパ」「アシュワジット」「バドリカ」と共に六年間ものあいだ、断食行も含め行なわれました。
この五人の仲間は、元は「シッダールタ」の父で、カビラ城の城主「シュッドーダナ大王」が、「シッダールタ」を城へ連れ戻させるためと、道中の護衛のために遣わした従者でしたが「シッダールタ」の四苦の元を断つ「解説真正の道」を求める決意の堅さに、自分達も城へ帰るのをあきらめ共に修行の道を選んだ人達です。この五人と「シッダールタ」の六年に及ぶその苦行は、言語を絶する壮絶なもので「身形消痩(しんぎょうしょうそう)して、皮骨相連(ひこつそうれん)なり、血脈(けちみゃく)悉(よ)く現われ」と云う状態で、身体は痩せ衰え、全身骨と皮ばかりで、全ての血管が浮き出ていると云う、正に骸骨そのものと見間違えるほどの眼を覆うばかりのお姿でした。
そこで「シッダールタ」は考えました。これだけの命がけの苦行をしても、私は未だに解脱出来ないでいる。もしかしたら修行の方法を間違っていたのではないだろうか。それにしてもなぜ解説できないのだろう。
六年もの長い間、断食も含め極端に食を少なくしてきた「シッダールタ」は体力が衰え、力も湧かず、気力も失われはじめていました。
これでは「解脱真正への道」を求める意欲も、気力も湧き揚がって来ないではないか。「シッダールタ」は自分のしてきた修行法に疑問を感じ始めていました。そうだ修行の方法を変えてみよう。
そうお考えになられた「シッダールタ」は、決心して六年の間苦行をされた苦行林をお出になられ「ネーランジャー河」へ向かわれ、そこで身も心も清められました。しかし長い苦行の結果、身体がすっかり衰弱していたため、足腰が云うことを利きません。
そこへ「スジャータ」と云う一人の娘が近づき、手にしたミルク粥を差しだし供養しました。聞もなく心身共に回復して、元気を取り戻された「シッダールタ」は、「ブッダガヤー」へ出かけ、只一人「ピッパラ樹」の下で静かに坐禅三昧(ざぜんざんまい)に入りました。「シッダールタ」が、ピッパラ樹の下で坐禅をされて、やがて徐々に悟りヘの道へ近づき始めると、第六天にある魔王の宮殿は大騒ぎになりました。もし「シッダールタ」が真実の悟りの道を極め、多くの迷える人々を救うようになれば、魔王の仕事がなくなってしまうからです。魔王としては、何としてでも「シッダールタ」の坐禅を邪魔して、悟りを得られないようにしなければなりません。
そこで、魔王は自分の千人の息子達と、三人の娘達を呼び集めて言いました。「今、正に真実の悟りを得ようとしているものがいる。彼が真正の道を得て、多くの迷える人達を救い始めると、我々の仕事がなくなってしまう。どうしたものだろう・・・?」と、皆の意見を聞きました。すると、先ず五百人の息子達が 「お父さん、私達は今まで数多くの人々に悪いことをして来たではないですか、もういい加減にそんな事は止めて、私達も彼の弟子になりましょう。」と言いました。しかし別の五百人の息子達は「冗談じゃない、我々の仕事は一人でも多くの人に、悩みや苦しみや迷いや恐怖を与える事じゃないですか、すぐに彼の所へ行って悟らないように、皆で邪魔をしましょう。」と言って、意見が半分ずつに分かれてしまいました。
そこで魔王は、三人の娘「楽見(らくけん)・悦彼(えつひ)・渇愛(かつあい)」の意見を聞きました。三人の娘達は口を揃えて「私達はお父様のご意思に従います」と云ったので、魔王は「シッダールタ」が悟りの道へ入るのを邪魔しようと決心しました。
悟りへの道は、五欲、つまり「眼・耳・鼻・舌・身」によって起こる、全ての欲を捨てなければなりません。そこで魔王はまだ「シッダールタ」が真実の悟りへの道を極めないうちに、彼の五欲を誘惑してやろうと考えました。
そこで魔王は、先ず最初に三人の娘達に命じ、お前達の魅力で「シッダールタ」が、落ち着いて悟りヘの道へ入れないよう、あらゆる手を使って誘惑させました。
魔王の三人の娘達は、他に類を見ないほどの美人で、しかも男を惑わす事にかけては、天女達の間でさえ誰も右に出るものはいないと言われている魅力を備え、しかも、実に妖しげな色気があって、一度男心を掴んだら絶対に離れられなくなる程の、媚しげな艶香と巧みに男心をくすぐる技を備えていました。
三人の娘は、静かに坐禅をしている「シッダールタ」に近づくと、さまざまに媚びた姿態をして「シッダールタ」を誘惑しようとしましたが、しかし、すでに禅定に入っている「シッダールタ」は、全く心を動かされませんでした。
そこで、今度は千人の魔王の息子達が、あらゆる手を使って、可能な限りの脅しや嫌がらせをしましたが「シッダールタ」は、全く動じる様子もなく静かに「降魔触地印(ごうまそくちいん)」を示され悪魔達を退散させました。
やがて翌十二月八日の早朝「シッダールタ」は、深い完全な禅定を終えると、宇宙全体が、信じられないくらいの大光明を放っているのに気付きました。
これは「シッダールタ」が、真実の悟りの世界へ入られたため、今まで見えなかったものが見えてきたのです。
そこで、暫くの間「シッダールタ」は、この大宇宙の大光明の中に、何ものにも囚われることなく、しかも一切のこだわりも無く、悟りを得ようという意識もなく、ただ、虚空を無心に遊泳するように、身も心も全てを委ねておられました。(この様な心の状態の事を≪空住くうじゅう≫と云います)
そして、再び深い禅定に入られた「シッダールタ」は、そのまま真実の真理の世界に、二十一日もの間、静かに留まられ、完全なる悟りの世界の中で「自受法楽(じじゅほうらく)」の境地を会得され≪ブッダ≫となられたのです。
このようにして、新しく≪ブッダ≫となられた「シッダールタ」は、まだこのお悟りになられた「真実の真理」に付いて人にお話しになろうとは考えておられませんでした。この「自受法楽(じじゅほうらく)」の世界に浸っておられた時間、すなわち「サールナート」で、五人のお弟子にお悟りの真理を説法されるまでの間の≪ブッダ≫の禅定無言の境地が、弘法大師の説かれる『正純密教』そのものなのです。従って、正しい密教の心を学ぼうとすれば、たた文字や言葉だけで会得しようとせず、自らも行を重ねて真理の道を感得することが大切です。
厄除け厄払いお祓い除霊護符呪詛返しの未勒館「密教と四柱推命」
厄除け厄払いお祓い除霊護符永代供養呪詛返しなど未勒館に!密教の加持祈祷・供養「四柱推命」
Copyright © 2008 Mirokukan All Rights Reserved.