【平成二十一年五月】の定例法話会・テキスト
『寿司詰め』か『オイルサーデン』か
≪英国人の「ユーモア」を感じる、鉄道会社への通勤ラッシュ抗議方法≫
今年の≪ゴールデンウィーク≫の高速道路大渋滞は、どこまで行っても千円と云うこともあって、最大60Kを越す大渋滞協奏曲の騒ぎも終わり、サラリーマンは、再び満員電車にゆられる地獄の≪通勤ラッシュ≫が始まりました。
日本ではこの通勤時の満員電車のことを『すし詰め状態』と言いますが、英国では缶詰にびっしり詰め込まれたオイルサーデン(鰯いわしの油漬け)にたとえるそうで、昨秋英国では、満員の通勤電車を利用する人達が組織を立ち上げ、鉄道会社の幹部のもとへオイルサーデンの缶詰を送り付け、話題になった。と産經抄は伝えていますが、いかにも英国的「ユーモア」と言うべきでしょう。
ところで、先月もお話したように、人間の欲(よく)と、瞋(いか)り、と癡(おろ)か、には際限がありませんが、これは世界共通の問題のようで、新約聖書の、マタイの19章16節から22節にかけて書かれている『資産家の危険』の中に次のように書かれていますので、仏教との共通点もありますので引用してみましょう。
『すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いのでしょうか。』イエスは彼に言われた。『なぜ、良いことについて、わたしに尋(たず)ねるのですか。良い方はひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら戒めを守りなさい。』彼は『どの戒めですか』と言った。そこで、イエスは言われた。『殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。偽証(ぎしょう)してはならない。父と母を敬(うやま)え。あなたの隣人をあなた自身のように愛(あい)せよ。』
この青年はイエスに言った。『そのようなことはみな守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。』イエスは、彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人達に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去っていった。この人は多くの財産を持っていたからである。
以上のやり取りを通じて、すでにおわかりのように、財があり過ぎるために、この青年の心は、≪仏教で云う多財餓鬼≫になっていたのです。
それでは、今月も前回に引き続き前回の続きのお話しをしたいと思います。
◎再録 ≪鎌倉セミナー・テキスト≫ 平成3.12.17
前回は、仏教の中でも最も重要な教えの一つである「貪瞋癡(とんじんち)」の三毒のお話しをしました。所謂、人は誰でも無意識のうちに、多かれ少なかれ日々この毒に冒され続けていると云うことです。
この教えの大切なところは、この「貪瞋癡(とんじんち)」三毒によって造られる諸悪業は、私達人間の本来持っている欲望と煩悩の「うずき」による、身勝手な行動と、言葉と、心の働きが、全ての原因になっていると云うことです。
この教えの大切なところは、この「貪瞋癡(とんじんち)」三毒によって造られる諸悪業は、私達人間の本来持っている欲望と煩悩の「うずき」による、身勝手な行動と、心の働きが、全ての原因になっていると云うことです。
私達人間の本性、本質的には「悪魔の囁き」とも云われる「欲望と煩悩の誘惑」の前には、全く無力であり、しかも誘惑の魔力によって理性を失った心は、その甘い囁きに逆らう術を知りません。とくに自我が強く、自分勝手で、他人に対する感謝の心を持たない、愚かで無知な人は、善悪のわきまえが乏しく、罪を罪とも思わず、次から次へと悪業を重ねて、その命が尽きるまで、一生涯心が汚れ続けて行くと云うことになります。
人は常に他人の立場も考え、この世の中、自分で生きているのではない、天地自然と大勢の人達のおかげで自分も生かされ、人も生きているのだと気付き、心からお蔭様でという感謝の気持ちを忘れないように心掛けてさえいれば「貪瞋癡の三毒」に冒されることも少なくなるでしょう。
しかしそれでも人は、ついうっかりと気付かずに罪を冒してしまうものです。仏教ではこの気付かずに冒した罪を非常に重いとしています。
曹洞宗の開祖でもある道元禅師はその教え「修證義(しゅしょうぎ)」の中で、この気付かずに冒した罪に触れて「當(まさ)に知るべし今生(こんじょう)の我(わ)が身(み)二つ無し、三つ無し、徒(いたず)らに邪見(じゃけん)に墜(お)ちて虚(むな)しく悪業(あくごう)を感得(かんとく)せん、惜(おし)からざらめや、悪を作りながら悪に非(あら)ずと思い、悪のあるべからず邪思惟(じゃしゆゐ)するに依りて、悪の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず。」と述べておられます。ちょっと難しい話になってしまいましたが、簡単に云うと私達のたった一度しかない大切な命や心が、他人を思いやる心や、お蔭様でと云う感謝の気持ちを忘れ、自分勝手な欲望の赴くままに行動するようになると、自分のものも、他人のものも、さらに外聞さえもわきまえず声を震わせ、目を逆立て、瞋(いか)り、所構わず喚(わめ)きちらし、善悪の区別も付かずに、心を「貪瞋癡(とんじんち)の三毒」に冒されながら悪を造り続け、汚れた自我の心の赴くままに、唯(ただ)、生きているだけと云うことです。これでは他の動物の行動と変わりません。しかしほとんどの人は自分だけは「貪瞋癡」の三毒に心が冒されているとは思っていないでしょう。
ところが私達は、日々、知らず知らずのうちに「貪(むさぼ)り」「瞋(いか)り」そして「癡(おろ)かな行為」を繰り返しては、本来は、清らかであった筈の自らの心を、自らの手で汚し続けているのです。例えば、よく母親が子供を叱るときに「せっかく〇〇ちゃんのためを思って、やってあげたのに」とか「お母さんがこんなに心配してあげているのに」と云っているのを耳にします。又ご主人に対しても「貴方のためを思ってしてあげたのに」とご主人に向かって口をとんがらしている奥様達を見かけます。
はたして、これは本当にお子さんやご主人を思っている言葉なのでしょうか、どう見ても、単なる自己主張と、自分を正当化しようとする、自我の心から出た言葉としか思えません。とくに、この「してあげたのに」「してあげているのに」の「のに」という言葉には、相手の立場を思いやる、心の優しさが全く無く、これでは、むしろ相手を責める自分本位の「自我」と「私が」と云う自己主張以外のなにものをも感じられません。
これでは、一応、口ではご主人のため、子供のためと、いくらきれい事を云ってみても、所詮は自分の事、自分の立場、自分の体面しか考えない、自己中心主義の自我の主張だけでしかない、と云う以外に言い様がありません。
残念ながら、このような自分勝手な考え方を改めない限り、このままでは家庭の和も、人間関係もうまく行かず、その結果、夫婦や親子の心は、ばらばらになってしまいます。これは、会社や、隣近所や、友人達の間でも同じことで、人は知らず知らずのうちに、相手を傷つけたり、不愉快にさせたりして、自分では気付かずに罪を重ねているのです。子は親の心を知らず、親は子供の心を理解しようとせず、又、一歩社会へ出ればお互い自分の立場でしか相手を見ようとしないため、心の行き違い、勘違いから、つまらぬいさかいや いがみ合いが起こるのです。
そうなってしまってからでは、取り返しが付かなくなります。このように、人はこの世に生を受けた瞬間から宿業とも云える「貪瞋癡」の三毒に心を冒され始め、懺悔による真実の心の浄化を願わないかぎり、未来永劫に地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)の四悪趣(よんあくしゅ)への道をたどり続けるのです。
これを「父母(ふも)恩重(おんじゅう)の経(きょう)」と云うお経では 次のように説いています。「事(こと)ありて、子(こ)を呼(よ)べば、目(まなこ)を瞋(いか)らして怒(いか)り罵(ののし)る。婦(よめ)も児(こ)も 之(こ)れを 見(み)て、共(とも)に罵(ののし)り共(とも)に辱(はずか)しめば、頭(こうべ)を垂(た)れて 笑(わら)いを含(ふく)む、婦(よめ)も亦(また)不孝(ふこう)、児(こ)も亦(また)不順(ふじゅん)、夫婦(ふうふ)和合(わごう)して後逆罪(ごぎゃくざい)を造(つく)る或(あるひ)は復(ま)た、急(きう)に事(こと)を辨(べん)ずることありて、疾(と)く呼(よ)びて命(めい)ぜむとすれば、十(と)たび喚(よ)びて九(く)たび違(たが)ひ遂(つい)に来(きた)りて給仕(きうじ)せず却(かえ)りて怒(いか)り罵(ののし)りていはく老(お)ひぼれて世(よ)に残(のこ)るよりは、早(はや)く死(し)なむには如(し)かずと、父(ちち)母(はは)これを聞(き)いて、怨念(おんねん)胸(むね)に塞(ふさが)り、涕涙(ているい)瞼(まぶた)を衝(つ)きて、目(まなこ)冥(くら)み、心(こころ)惑(まど)ひ、悲(かな)しみ叫(さけ)びて曰く、噫(ああ)汝(なんじ)幼少(えうしょう)の時(とき)、吾(わ)れに非(あら)ざれば養(やしな)はれざりき、吾(わ)れに非(あら)ざれば育(そだ)てられざりき、而(しか)して今(いま)に至(いた)れば即(すなわ)ち却(かえ)りて是(かく)の如(ごと)し噫(ああ)吾(わ)れ 汝(なんじ)を生(う)みしは、本(もと)より無(な)きに如(し)かざりけりと、若(も)し子(こ)あり、父(ちち)母(はは)をして是(かく)の如(ごと)き言(ことば)を発せしむれば、子(こ)は即(すなは)ちその言(ことば)と共(とも)に、墜(お)ちて地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の中に在(あ)り、一切(いっさい)の如来(にょらい)金剛天(こんごうてん)・五通仙(ごつうせん)も、これを救(すく)ひ護(まも)ること能(あた)はず。」と書かれています。
誠に嘆かわしいことです。これでは佛でさえも救うことが出来ないと云っているのです。それでは、佛でさえも救えないとすれば、一体どうすれば良いのでしょう。それには唯ひとつの方法しかありません。それは自分が罪を犯した、それも最も重い五逆罪と云う罪を犯したと気付き心から懺悔をしてお詫びすることです。佛さまは今は救うことは出来ないが、決して見放してしまったわけではありません。どんなに重い罪を犯した人でも自分がその罪に気付き命がけで懺悔をすれば佛さまは喜んで救ってくださいます。その証拠に、このことは仏典の中で、お釈迦様が、「デーバダッタ」と云う、自分の命さえも狙ったり「観無量寿経」にも書かれている有名な「王舎城の悲劇」で、王子をけしかけ父である「王」を石牢へ幽閉して餓死させたり、さらにお釈迦さまの教団をも破壊しようとした悪人でさえ最後にはお許しになっていることでも判ります。
これは何もこの経典の中の親子の問題だけではありません。今の日本では、日常、私達の身近で、ごく普通に起こっている事だと云えるでしょう。
一見、善良そうに見える人物でも、日々の生活の中で虚栄心を満足させるため、お金や、地位や、名誉のためには手段を選ばず、その場限りの詭弁(きべん)を弄(ろう)して人を利用し、迷惑をかけ、自分の親にさえも言葉巧みに嘘をつき、そして、まんまと人を陥れ、「身(しん)語(ご)意(い)」三業による罪を日々重ね続けていくのです。
密教では「貪(とん)瞋(じん)癡(ち)」による、「罪(つみ)・咎(とが)・汚(けが)れ」の諸悪業(しょあくごう)を懺悔する事を、大切な修行として、次のような≪懺悔文≫を一万回唱える懺悔行(さんげぎょう)を行います。
この懺悔文は「華厳経普賢行願品」の中の「略懺悔」と云います。
我(が)昔(しゃく)所(しょ)造(ぞう)諸(しょ)悪(あく)業(ごう)
皆(かい)由(ゆう)無(む)始(し)貪(とん)瞋(じん)癡(ち)
從(じゅう)身(しん)語(ご)意(い)之(し)所(しょ)生(しょう)
一(いっ)切(さい)我(が)今(こん)皆(かい)懺(さん)悔(げ)
この懺悔文の意味は『我昔より造れるところの諸々の悪業は、無始より此のかた≪貪(むさぼり)≫と、≪瞋(いかり)≫と、≪癡(おろか)≫による、『身(からだ)と、語(ことば)と、意(こころ)』より生じるところの『罪(つみ)科(とが)汚(けがれ)』であります。今ここに、これらの一切をお詫びし、心より懺悔(さんげ)いたします。』この懺悔文を、朝(あした)に、夕(ゆうべ)に、日々唱える事によって、仏教で非常に重い罪とする≪自分で気づかずに冒した罪≫に対して心からの許しを乞い≪身・語・意≫三業の浄化を願うのです。ところで、私達が、知らずに冒した罪によって、他人から受ける恨みは、自分では気付いていないだけに、とても恐ろしいものですが、まして自分が意識して冒した罪による怨念ともなると、その恐ろしさは、私達には到底計り知る事が出来ない程≪深く・重く≫そして激しいと思って良いでしょう。
このように、生きている人の恨み、いわゆる怨念は、別に『生き霊』とも云い、死んだ人から送られる≪死霊・怨霊≫のエネルギーよりも、はるかに恐ろしく、しかも、限りなく執念深く際限がないと云われています。
そこで、もう一度『父母恩重経』に戻ってみますと、佛が最後に重ねて説法された教えの言葉の中に、次のような戒(いまし)めがあります。
『仁心(じんしん)ありて施(ほどこし)を行(おこな)ひ、禮式(れいしき)ありて身(み)を檢(ひきし)め、柔和(にうわ)にして辱(はじ)を忍(しの)び、勉強(べんきょう)して徳(とく)に進(すす)み、意(い)を寂静(じゃくじょう)に潜(ひそ)め志(こころざし)を學問(がくもん)に励(はげ)ます者(もの)と云えども、一(ひと)たび酒色(しゅしょく)に溺(おぼ)るれば、悪魔(あくま)忽(たちま)ち隙(すき)を伺(うかが)ひ、妖魅(えうみ)即(すなは)ち便(たよ)りを得て、財(ざい)を惜しまず、情(じょう)を蕩(とろか)し、忿(いかり)を發(おこ)させ、怠(おこた)りを増(ま)させ、心(こころ)を亂(みだ)し、智(ち)を晦(くら)まして行(おこな)ひを禽獣(きんじゅう)に等(ひとし)くするに至(いた)ればなり。大衆(たいしゅ)古(いにしえ)より今(いま)に及ぶまで、之(これ)に由(よ)りて、身(み)を亡(ほろ)ぼし、家(いえ)を滅(ほろ)ぼし、君を危(あやう)くし、親(おや)を辱(はずかし)めざるは無(な)し。』と続いています。
このように、悪魔の誘惑に負け、理性を失った人間の心は、男女を問わず弱く、そして脆いものです。又、自分の思うようにならない事があると、ついイライラしたり怒ったりします。お釈迦様は、この思うようにならない心の状態を≪苦≫であるとおっしゃっています。しかも、この世で完全に自分の思うようになるものは一つもなく、したがって人生は≪苦≫であると言われているのです。
要するに私達の一生は、『我慢の一生』であり、『譲り合いの一生』であり、『お蔭様でと云う感謝一生』でもあるのです。
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