【平成二十一年四月】の定例法話会・テキスト
政・財・官の心の貧しさの本質を、過去の鎌倉セミナーに見る
≪「井原西鶴」は『人間は欲に手足の付いたるものぞかし』と言った。≫
江戸時代前期の浮世草子作家として一世を風靡(ふうび)した≪井原西鶴≫は、元禄時代前後の現代にも共通する退廃的な享楽世界を、物欲・性欲に支配され、それに溺れ、さらに地位名誉・権力欲にしがみつき、それを手に入れるための金銭欲の卑しさ滑稽さを題材に、そのユーモアあふれる、独自のペーソスと風刺の効いた代表作に「好色一代男」、「好色五人女」などの好色物に、町人の経済生活を描いた町人物に「世間胸算用」や「西鶴諸国ばなし」などがあります。
これらの作品に共通するのは、人間の欲は「今も昔」も変わらないと云うことを、西鶴に『人間は欲に手足の付いたるものぞかし』と言わせたのでしょう。
これらは、すべて仏教の教えの根本にある≪貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)(むさぼり・いかり・おろか)≫から起きているのです。そこで、最初の頃に法話会でどのような話をしていたのか、今から二十年近く前のフロッピーを見ましたら次のような話をしていたことが分かりました。
仏陀(ぶっだ)の教えは時空を超えて新しいのです。
そこで、今月は、平成3年に鎌倉でお話しした事を復習したいと思います。
再録 ≪鎌倉セミナー・テキスト≫ 平成3.11.29
≪こだわりのないインドの人々…≫ (神秘的で美しいその瞳の秘密は)
数年前にインドの仏跡巡りの旅をしていたときのことです。ヴァイシャリーの近くの鉄道の踏切に車で差しかかった時、その踏切の遮断機が突然降りてしまいました。最初は別に気にもしていませんでしたが、10分たち、20分たち、やがて30分たちましたが、いっこうに列車は来ないし、踏切も開きません。
しかも肝心の踏切番も現地の人達も、イライラするでもなく別に慌てる様子もありません。それどころか思い思いに車を降りて、のんびりと話しに花を咲かせているではありませんか。たまりかねて、同行した現地のガイドに聞くと「たぶん列車が遅れているんでしょう」と、これ又平然として煙草をふかしています。当時のインドでは、通信が不自由だったので、列車の遅れを確認することが難しかったのです。だまって列車が通り過ぎ、踏切が開くのを待つしかありません。もし、このようなことが日本で起こったら、たぶん大騒ぎになり、翌日の新聞はさぞ賑やかなことになったでしょう。
しかし、インドの人達は、決して流れに逆らわず、あるがままに与えられた環境の中でゆったりと生活をしているのです。自然でこだわりのないその姿の中に私はインド独立の父ガンジー思想の根本を、この目で見せられた思いがしました。今、私達日本人が、世界の人々から学ぶべき「心の問題」は、数えきれないくらい沢山あります。たとえば、今の日本が世界有数の経済大国であったとしても、それがそのまま世界有数の心の豊かな国になったと云う訳ではありません。経済的豊かさが、必ずしも心の豊かさに繋がっているとは限らないと云うことです。それどころか、今の日本はむしろ物質欲、金銭欲に対する執着心がますます強くなり、自分さえ良ければと云う考えが優先して、仏教で云う「餓鬼道」に落ち、その結果心の貧しさ愚かさから、人間として一番大切な「心」いわゆる「他人に対する思いやりの心」がどんどん失われているように思えてなりません。仏教では、決して経済的に貧しいから、あるいは貧しく貧乏でひもじいから「餓鬼の世界に落ちる」と云っているのではありません。
むしろ、経済的な問題よりも「心の貧しさ」から墜ちて行く世界であると云っているのです。しかも、人はすべて餓鬼になりうるとも説いています。
それは仏の教えの中に「餓鬼に三種あり、第一に無財餓鬼、第二に少財餓鬼、第三に多財餓鬼」と云う言葉があって、人間は心の持ち方一つで、誰でもが一人残らず、餓鬼になる可能性があることを示しています。
そして、その第一の無財餓鬼とは、貧しさのあまり自分の物も、人の物も見境なく欲しがる≪貪(むさぼ)り≫の「心の状態」のことを云い、第二の少財餓鬼は、それなりの生活をしていながら、あれも欲しい、これも欲しい、そしてもっと豊かな生活がしたいと欲張り、それが自分の思うようにならないと≪瞋(いか)り≫物事を正しく観られなくなると云う「心の状態」を表し、最後の多財餓鬼は、なに一つ不自由がなく、しかも有り余る財を持ちながら、それを人に取られやしないか、あるいは狙われているのではないかと何時も疑心暗鬼になって、正しい考えが出来なくなった≪癡(おろ)か≫な心の状態を云います。
これを仏教では≪貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)≫の「三毒」と云います。
繰り返して云うようですが、「貪(むさぼ)り」とは、自分のものも人のものも見境なく欲しがり「瞋(いか)り」とはそれが思うように手に入らないと腹を立て「愚(おろ)か」とはその結果善悪の判断がつかなくなることを云います。
このような心の働きは、全て人間の欲望や煩悩の「うずき」がその原因となって起こります。それで、密教以外の一般仏教、いわゆる顕教(けんきょう)では、まず修行の基本として、まず第一に煩悩を断ち、欲望を押さえよと云うのでしょう。
しかし私達人間は、煩悩があり欲望があるからこそ、生きる意欲が出てくるのではないでしょうか。しかも、お釈迦様はただの一言も≪煩悩や欲望を断て≫とはおっしゃっていません。ただ≪煩悩を浄化し、欲望は塞き止めよ≫とおっしゃっているのです。しかし、密教では、むしろ積極的に煩悩や欲望を認めています。そして「煩悩や欲望のエネルギー」を一時的に塞き止め貯えおいて必要な時に生かして使えということです。
この人間の欲望や煩悩が生みだす巨大なエネルギーは、それをコントロールする方法と、その使い道を誤ると≪貪瞋癡の三毒≫に心が犯され、永遠に餓鬼の世界に墜ちてしまう危険性があるのです。
よくインドを旅行した観光客の人達から、観光地として有名なタージマハールやアグラ城へ行くと、乞食や物乞いが多くて困ると云う話を聞きますが、インドの人達は決して日本人が考えているような心で、乞食や物乞いをしているのではありません。彼らが信仰しているヒンドゥ教の教えでは、富めるものが貧しきものに富を分かち与えるのは、当然のことと考えているのです。そこへお金持ちの日本人観光客が来れば、貧しい自分達に財を分かち与えるのは当然のことだと彼等は思っているのです。
彼等は仕事があるのに怠けて、乞食や物乞いをしている日本の「その種の人達」と違って、仕事が少なく経済的に恵まれないインドで、彼らなりに一生懸命に頑張って生きているのです。それは彼らの美しく澄み切った、神秘的な目の輝きを見ればよくわかります。
彼らは自分達よりお金持ちだと見れば「バクシーシー」と云って両手を出して物乞いをしますが、貰えないと判るとあっさり引き上げていきます。その時の彼らの目は決して恨めしげではなく、むしろなんのこだわりもない美しく澄んだ瞳をしています。心が澄んでいる証拠でしょう。
私も一度だけ彼らが「バクシーシー」と云ってきた時に、こちらも「バクシーシー」と云って、両手を差しだしたことがあります。
するとどうでしょう、私達よりはるかに貧しいはずの彼が、自分の持っていた僅かばかりの食べ物を、私にくれるではありませんか、その時の彼の優しい笑顔と宝石のように輝いていた瞳が今でも忘れられません。
彼らは、ヒンドゥ教の教えにしたがって、輪廻転生による生まれ変わりを、心から信じ切っているので、現世での欲望に対する必要以上のこだわりがなく、生活は貧しくても、心が「餓鬼の世界」には墜ちないのかも知れません。
では、私達はどのような生き方をすればよいのでしょう…?
それには何と云っても、先ず必要以上の「心のこだわり」を捨てることです。その一つの例として、お釈迦様の教えの中に、インドの北東地方の村々を遊行と云って次々と説法して歩かれていた時のお話しがあります。
お釈迦様が、次の説法をするために行かれる村に、先回りをしたデーバダッタと云う男が村中の人達に、これからインチキ坊主が来るが、絶対に話を聞いたり供物を差しだしたりしないようにと、ふれ回って歩いたのです。
このデーバダッタと云う男は、もとお釈迦様の教団にいて意見のくい違いから、教団を勝手に飛び出した男なのです。
そのおかげでお釈迦様一行が、その村に着いたときには、村の人達は、ただの一人も話を聞きに来ませんでした。もちろんお供物を持ってくる人もありません。しかもお弟子さんたちが、家々を回って托鉢をしようとしても、どこの家も固く戸を閉ざし托鉢どころではありません。
そのような日が何日も続いたある日、お付きの阿難尊者がたまりかねて、お釈迦様に『このような状態では仕方がありません 早く他の村へ行きましょう』と申し上げました。するとお釈迦様は『いや このままこの村に留まろう』とおっしゃったのです。そこで阿難尊者が『でももう食べるものがありません』と申し上げると、なんと、お釈迦様は『無ければ食べなければ良いではないか』と平然としておっしゃったのです。
これは大変なことです。簡単に云えることではありません。もし私達がこのような状況に置かれたらどうでしょう。もちろん今の日本はこの飽食の時代ですから、食べるものが無いなどということは考えられません。しかし、おそらくお腹がすきイライラして、何でも手当たり次第に、口に運ぶということになるでしょう。しかし、経済的にも恵まれている現在の私達は別として、今の世界の半分以上の人々は、今でも食べるものがなく飢えで大勢の子供達が毎日死んでいるのです。私達はそのことを忘れず、自分だけがよければと欲望の赴くままに行動したり、必要以上に物を欲しがったりしないよう、気を付けなければなりません。お釈迦様はこのような欲望のことを「タンハー」と云って≪欲望は渇きである≫とおっしゃっています。丁度、咽の渇いた人が、水を求めて砂漠をさまよい、やっと見つけた水が、たとえ泥水であっても、ヒリヒリする咽の渇きに我慢できず、夢中で飲んでしまうのと同じである、と教えておられるのです。
私達の欲望という咽の渇きは、欲しいものや、手に入れたいものを見ると、すぐに欲望の咽がカラカラに渇きそれを欲しがります。しかも、今の日本は、咽の渇きを誘うようなものが、街中にあふれています。このような時代を生きている私達は、少しでも渇きを誘う誘惑に耐え、我慢をすることが大切でしょう。
そのためには、きれいに見える外の「水」にばかり目をむけないで、自分の今持っている「水」をもう一度見直し、大切に使う工夫と努力をすることです。
先程もお話しましたが、仏教の教えの中の「地獄」という世界には「餓鬼」と云うのがいて、食物を食べようとすると、焔となって燃えてしまい、どうしても食べることができず、痩せ衰えて骨と皮ばかりになって、苦しんでいる姿が描かれていますが、これとは別に私達の娑婆世界には「生き地獄」という世界があります。しかも、その生き地獄の世界には、数多くの餓鬼が住んでいます。
でも、ほとんどの人は、自分だけは生き地獄には縁がないと思っているでしょう。しかし、実はそうではないのです。それは、あなたも心の持ち方一つで、今すぐこの「餓鬼」になることができるのです。
それは、どんな「餓鬼」かと云うと、先ず「無財餓鬼」次に「小財餓鬼」そして「多財餓鬼」と云うすべての人の心の中に眠っている餓鬼なのです。
たとえば、経済的に苦しく借金が多く、毎日のやりくりが大変な人で、お金も財も無く、いつも財を求めてさまよう人を「無財餓鬼」と云い、又、少しばかりの財があり、日常それほどの不自由もなく生活出来るのに、あれも欲しいこれも欲しいと、さらに贅沢を求めるものを「小財餓鬼」と云います。さらに社会的にも経済的にも成功して、既に巨万の富を築き上げた人でも、自分の財産を狙うものはいないか、あるいは自分の地位や名誉や権力を狙うものはいないかと、心配のあまり厳重に警護を固めて人が信じられなくなっている「多財餓鬼」しかもそれだけではありません。財を離れても、複雑な親子関係、いがみ合う夫婦、嫉む友人、会社での陰湿な人間関係等、数え上げればきりが無いくらい、生きている世界の方がより地獄に近いと言えるのではないでしょうか。
人はこのように心の持ち方や考え方一つで、誰でも餓鬼に成りうるのです。
『餓鬼』とは、六道の下から≪地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天≫と云って、地獄の一つ上に位置し、下から二番目ですから、餓鬼道にどっぷりと首までつかっている人は、もう既に完全に地獄界に片足を突っ込んでいると云ってよいでしょう。こうして考えてみると、人間の一生は心の持ち方の一生であり、陸地の見えない大海原の大航海であるとも云えます。
この人生と云う名の航海は、鏡のような静かな海でも、あるときには恐ろしいほどの荒れ狂う海にもなります。いつどう変化するかわからない、この人生の大海原を無事に乗り切るには、先ず、知識としての帆と舵の扱いを覚え、つぎに天地自然の偉大な力を知って逆らわず、むしろそれを味方として利用する知恵を身に付け、安全に航海する術を学ぶべきでしょう。最初の船出には、程良い追い風が優しさと思いやりを教え、中程の航海では、予期せぬ自然の変化と荒波を乗り切る術を授け、そして最後の航海では、その会得した貴重な経験と、技術と知恵と、忍耐を人生の貴重な航海術として明日を担う若者達に教え伝えると云う大切な仕事が待っているのです。
人はそれを完全に成し遂げた時、真実の心の安らぎと充実した満足感を得て、人の一生は完成するのです。
自分の一生を通じて得たものを、決して独り占めしてはなりません。次の世代に伝えてこそ、自分がこの世に生きていた意義があるのです。
自分の得たものを守りたい、大切にしたいという心はわかりますが、これが心の執着を生み、手段を選ばず平気で人を傷つけ、裏切ることになるのです。
たびたび同じことを繰り返すようですが、仏教では、この心の動きを貪瞋癡と云って、人間の心を汚す三毒と云います。これは自分が欲しいとなると、自分のものも、人のものも見分けが付かなくなり、それが思うように手に入らないと云って怒り、心が乱れ自分自身の心のコントロールが出来なくなることを云います。
又、私達人間は知らず知らずのうちに、自分では気がつかない罪を毎日冒しています。仏教ではこの罪を一番重いとしています。そのために毎日「懺悔文」を唱えて、知らずに冒した罪を心から懺悔して、心身共に浄化を願うのです。
仏のお力によって浄化された身体には、悪魔も、悪い霊も決して寄り付かないものです。このことは、お釈迦様が六年の苦行の末『ブッダガヤ』でお悟りを開かれたとき、集まってきた千人をこす悪魔達も、なかなか寄り付けず、ついには手も出せなかったと、仏典の中で述べていますが、真言密教の根本経典の中の『大楽金剛不空真實三摩耶經(たいらきんこうふくうしんじさんまやけい)』別名≪般若波羅蜜多理諏品(はんにゃはらみったりしゅぼん)≫の第三段≪降伏(こうぶく)の法門≫では、更に具体的に降三世明王(こうさんぜみょうおう)による≪過去・現在・未来≫の三世にわたる、降伏(こうぶく)による、身口意(しんくい)三業(さんごう)の浄化と、三業成仏の功徳を説いていますが、その内容はかなり高度で難しくなりますので、いずれお話しすることに致します。
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