【平成十六年十月】の定例法話会・テキスト
再び国民栄誉賞を断ったイチロー。
《社会保険庁の役人達よ!君たちは『イチロー』の爪の垢でも煎じて飲みなさい・・・》
ともすれば忘れがちだった、八十四年前の大記録に光を当て、その偉大さを人々に再認識させたのが『イチロー』なら、その記録を破ったのも『イチロー』でした。
この八十四年もの間、誰にも破られなかった《ジョージ・シスラー》の大リーグのシーズン最多安打257本と云う世界記録の金字塔は、2004年10月1日(日本時間で2日)、シアトル・マリナーズの本拠地セーフコフィールド球場で、4万7千人の大観客が見守る中、ついに書き換えられたのです。この日もイチローは、第一打席で、何時ものように静かにバッターボックスに入り、何でもないかのようにヒットを打ち、当然のように一塁ベース上にすっくと立ったのです。しかも、続く第二打席でも、ものの見事にセンター前にヒットを打ち、あっさりと八十四年間破られなかった大リーグの最多安打記録を塗り替えてしまったのです。
この快挙に球場の大観衆は総立ちでイチローを拍手で称え、イチローもまたスタンドの観客に向かって帽子を高く揚げ、全身にその喜びを表しながら答えていました。
しかし、ここからが何時もとは違っていたのです、と云うのも、まだ、試合は続行中なのに、マリナーズのベンチから、監督を始め全選手が一塁ベース上のイチロー目掛けてかけ寄り、歓喜の祝福をしたのです。しかも、さらに驚くことに、今度はイチローがそのままスタンドで観戦中のシスラー選手の娘さんの許へかけ寄り、彼女と笑顔で握手を交わしたのです。
この美しくほのぼのとした光景は、私達にまだ試合が続いている最中さなかだと云う事を思わず忘れさせる程で、さすがアメリカと云う印象を受けた人も多かったでしょう。
さらに、翌日の試合前に行なわれた表彰セレモニーでは、バド・セリグ・コミッショナーから『最も塗り替えるのが難しいのはジョー・ディマジオの56試合連続安打だと思うが、今回の偉業はそれに非常に近いもの・・・』と最大の賛辞をもって祝福されたのです。
また、この新記録達成に向けて、イチロー夫人の《鈴木弓子さん》から次の様なメッセージが寄せられていますが、その内容は『ただただうれしく感謝しています。メジャーでプレーができる、という思いがかなったとき、鏡の前でマリナーズの帽子をかぶっては子供のように喜んでいた笑顔が今でも心に残っています。あれから4年、あのときかぶって見せてくれたマリナーズの帽子を、メジャーの偉大な記録を塗り替えるという瞬間に大勢のファンの方たちの喝采にこたえて高々とかかげる日が来るなんて、その感激は言い尽くせません。この4年間、決して平たんな道のりではありませんでしたが、私自身、主人のひたむきな姿に支えられてきました。感謝の気持でいっぱいです。そしてなにより応援してくださったファンの皆さま、支えてくださったすべての方々に心より感謝いたします。本当にありがとうございました。』と云う、ほのぼのとした夫婦愛を感じさせるコメントでした。
この弓子夫人のメッセージにもある様に、普段は冷静でクールでひた向きに何かを求め続ける求道者のようなイチロー選手も記録達成後にテレビに放映されたロッカールームでのチャメッケたっぷりのハシャギ様は、イチローの意外な一面を覗かせていました。
このように、あくまでも自らの天賦の才能に奢ることなく、冷静に己を見つめ、努力を怠らず、あくなき探究心の結果が今回の新記録となって実を結んだのです。
ところで話題は替わりますが、このイチローに比べ、社会保険庁の役人達の出鱈目さには、全く目を覆いたくなる程で、自分達の職権や立場の上に胡坐あぐらをかき、国民が自らの老後のために血のにじむような思いで収めた保険料を、まさに湯水のごとく好き放題に浪費した上にその盗人まがいの事実が発覚しても誰も責任を取ろうとしないのです。これでは、私達国民が《社会保険庁の役人達よ・・・!君たちはイチローの爪の垢でも煎じて飲め・・・!》そして《反省して責任を取れ!この亡国役人が!》と叱責されても仕方がないでしょう。
しかも、これと同じ様な事が大なり小なり、社保庁以外の大半の役所でも行なわれていると聞けば、私達国民の我慢にも限界があると云う事を彼ら(彼女ら)は知るべきでしょう。
この身勝手な彼ら(彼女ら)の行為の最大の原因は、役人の世界に数々の弊害をもたらした「キャリア」と云う制度で、この制度は今から約千五百年前の中国の隨ずいの時代(581-618)に採用された《科挙かきょ》と云う制度がモデルだと言われていますが、この制度も清しんの時代の1905年に、あまりの弊害の多さに廃止されたと言われているにもかかわらず、我が国では今だに、この不条理で弊害の多い悪しき制度を、後生大事に守り続けているのです。
もっとも、一部の役人達にとっては、この「キャリア」と云う《都合の良い制度》は大切な既得権かも知れませんが、その権利の乱用ぶりが、サンケイ新聞(10月2日)の《癒着》と云う連載記事に(引)「『社保庁は変われるか・・・《職員宿舎も保険料で・・・しょせんは他人のカネ》』」と云うタイトルで、社保庁役人の出鱈目で際限のない、傍若無人な保険料の浪費ぶりを書かれるようでは、このまま社会保険庁の役人達に、私達国民の大切な《虎の子の年金》を任せておいては、私達国民が老後の生活のために受け取る、大切な年金が心配です。
この様に何事も行き当たりばったりで、国家や国民の将来をまったく意に介せぬ、自分勝手な役人の「キャリアと云う特権制度にふれて、作家の橋本治氏は集英社新書の《上司は思いつきでものを言う》の中で、特権階級の役人制度について次のように言っています。」
(引)「『明治の維新政府は、それまでに官僚として存在していた武士階級を一挙に消滅させてしまいました。ある時、一斉に支配階級の人間がいなくなってしまって、それで内乱状態に陥ることもなかった日本人の変わり身の早さには仰天してしまいますが、新政府を作ってもそこで働く官僚がいない、《だから作ってしまえ・・・》という決断もすごいものです。
そうやって突然登場する官僚養成施設が、後の東京大学です。東大出の人間がどれほど優秀かは知りませんが、東大(旧帝大)出の人間が「格が上」と思われていたことは事実でしょう。なにしろ《東大を出る》ということは、そのまんま《国家の中枢に存在する、高級官僚(キャリア)=すなわち武士に代わる新しい支配階級になる》だったのですから。そして、その東大を出た人間は《官》へ行き、《民》を指導する立場に立ちます。・・・《中略》・・・』 」
そうして、近代の日本には、《官》と《民》との二つのグループが生まれます。問題は、それがいつの間にか『二つの階級』のようになってしまったことです。・・・中略・・・
《民》と《官》をくらべれば、税金という収入源を持つ『国家』に代表される《官》の組織の方が巨大で強大なのは決まっています。《官》には《民》を取り締まる《許認可権》もあります。しかし《官》と《民》は、別に生まれによる身分制度ではありません。それは単に《東大に行くか、行かないか》で、『東大を出て《官》に進むか、進まないか』の選択の問題でしかありません。《行けるか、行けないか》は能力の問題でもありますが、人生の一時ひとときの、人間の能力のある部分に関するテストの結果を、そのまま《能力の問題》と言い切る訳にもいかないでしょう。』と、たった一度のテストで決まる「キャリア」制度を批判しています。この「キャリア」の様な地位身分の差別制度について、お釈迦様は原始仏典の《スッタニパータ》の中で次のような言葉を残しておわれます。それは『人は生まれながらにして《バラモン》なのではない。その行為によって《バラモン》なのである。』と、言っておられますが、この《バラモン》と云うのは、古代インドの、社会階層制度である、四姓制度(生まれによる階級制度)の最上位に位置し、《バラモン》の家系に生まれたがゆえに《尊い》と自他ともに認める差別的な制度のことを言いますが、お釈迦様が言おうとしていることは、例えば、我が国で昔から女性達の憧れの対象として言われている『玉の輿に乗る』にたとえてみますと、要するに、たまたま運よく《玉の輿に乗れた者は》それ以後、日々連綿としてその《玉の輿》に相応しい努力や研鑽を積み、はじめて《本当の玉の輿に乗れた》なのであって、決して《濡手ぬれてに粟あわの玉の輿》は無いと云うことなのです。
従って、この事を「キャリア」や役人達に言うとすれば、あなた達はそれほどその地位や名誉が欲しいなら、日頃からその地位に相応ふさわしい努力や行為を重ねてこそ、本当にその地位や名誉や権力が得られるのあって、他人(国民)の金を好き放題に湯水のごとく使って、国民のことは考えず役得意識に走り、公僕としての努力さえも怠っていては、必ずや天誅が下ると云う事を知るべきで、万一、その様な努力や苦労はしたくないと云うなら、今すぐ役人を辞めて、己おのれの身の丈にあった《気まま》な生き方をするしかないでしょう。
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