【平成十六年八月】の定例法話会・テキスト
『お浄土には、羊羹(ようかん)があるの・・・?。』
《これが、十三才で被爆した男の子が、臨終に際し父親に言った最後の言葉です。》
今年で五十九回目を迎えた終戦記念日も、早いもので来年は六十回目と云う節目の年を迎えることになります。これは私達人間世界の年齢で云えば還暦を迎えると云う事であり、しかも一般サラリーマンには、官民を問わず定年退職の年齢と云う事になります。それと同時に「広島」や「長崎」に原爆が投下されてからも、同じ六十年目と云う事になる訳です。
そこで問題になるのが年金問題で、定年退職したあと運よく再就職出来た人は収入の道を確保できますが、若い人でさえ就職難の今日この頃ですから、定年組には年金を貰うまでの五年間は、無収入という事にもなりかねず、多くの人々は仕方なくそれまでに蓄えたものを、竹の子の皮を一枚づつ剥がすように、小出しにして生活せざるを得なくなる人も多くなるかも知れません。《終戦直後はこの様な生活の状態を竹の子生活と言ったのです。》
しかし、その様な不安を抱えながらも、今年も例年のようにお盆休みを兼ねた民族大移動の季節が巡ってきました。そして人々は帰省を兼ねたご先祖のお墓参りのため、超満員の帰省ラッシュの中をはるばる故郷へと帰って行くのです。しかし、これらの人々は一部の外国人や評論家が云うように、必ずしも篤い信仰心から先祖の墓参りの為に故郷へ帰って行くとは限らないかも知れませんが、少なくとも、一般的には日本人は、結婚は神前で、葬式は仏教で行ない、しかもクリスマスまでも祝う、と云う多様性と柔軟性を合わせ持った民族ですから、これが、欧米の一神教の人々から見れば、私達日本人の大らかで寛容な信仰心が理解されにくく、従って、日本人には本当の信仰心があるのか?と、奇異の目で見られて来たのです。しかし、これは、唯一絶対の神以外を信じないと云う、欧米の一神教特有の考え方であって、それは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の根本にある、モーゼの十戒の《私以外の神を決して信じてはならぬ》と云う教えからみれば仕方ない事なのでしょう。
その点は、鈴木大拙博士の言う(引)「『東洋には分別(対立)を超える叡智がある。』」と云う言葉とは対象的で、それは即ち《分別即無分別、無分別即分別》であると云う事なのです。
ところで、この鈴木大拙博士は、かつて1960年に米国の世界的な雑誌『ライフ』が行なった世論調査の《世界に現存する最大の哲学者は?》と云う問いに対し、米国人の大多数が《ドクター・ダイセツ・スズキ》と答えたと云う事は、意外と云うか驚きに値します。
この様な偉大な宗教思想家でもある鈴木大拙博士は、なんと七十九才の時に、たった二つのスーツケースを抱えただけで、長期滞在の覚悟で渡米をしますが、その目的は『ZEN』を広め、西洋と東洋の思想に橋を架けようとする、命懸けの覚悟だったと云われています。
その反面、中国で開催されたサッカー・アジア杯は、八月七日に北京で行なわれた決勝戦で日本が三対一で開催国の中国を破り優勝はしましたが、その前の重慶での試合では、中国サポーターのブーイングで日本の国家が聞こえない程だったと云います。この様な《反日》大キャンペーンは、何も今に始まったことではなく、1994年に「江沢民前国家主席」によって公布された『愛国主義教育実施綱要』にもとづき、大人から子供まで愛国という名のもとに十年にわたって徹底した《日本人への憎悪と敵愾心》を植えつける事に懸命になった結果であって、何も彼らサポーターだけの責任だとばかりは云えないかも知れません。
この件については、八月六日付けのサンケイ新聞によると、(引)「東京都の石原知事は、同日の定例記者会見で『中国は社会の不満から目をそらせるために、日本を仮想敵としている。それが国際的な紳士協定を無視したああいうことになって出てくる。』」と不快感を示したうえで、さらに「『中国の将来にとって悲しむべきことであり、近年のうちにオリンピックを催す国の資質がああいうものだということになれば、眉をひそめる国も沢山出てくると思うし、そこらへんの反省を早くして、打つべき手を打つべきだろう』」と述べたとあります。
この石原知事の声が、北京のお偉方に聞こえたかどうかは別として、六日の日本と中国と決勝戦での中国サポーターの態度は、試合後騒動を除けばまずまずでした。
ところで、東京工業大学助教授(宗教学)の上田紀行氏に聞く《時代に関わる仏教を》と云う興味深い記事が目にとまりましたので紹介してみますと《かつて寺院はいろんな意味で地域社会の中心だった。医療、娯楽・芸能、教育(寺子屋)の、あるいは今でいうカウンセリングのセンターだった。ところが明治以降、とりわけ戦後になって、寺院は地域社会の中心どころか、葬儀と法事以外で、社会人とかかわることすらやめたようにみえる。》
そして、NHK出版の『がんばれ仏教!』でも、そんな仏教界への批判を仏教再生への道を提示した、この上田紀行教授に稲垣真澄氏が聞いた記事の中から、その一部を抜粋して見ました。『よく葬式仏教といわれます。その葬式仏教から葬式を引き算すれば、仏教が残りますが。葬式仏教であることをやめたら、純粋な仏教が残るどころか、仏教そのものがなくなってしまいます。大問題です。』と、そして『それにしても現在、社会の側から仏教の側に、葬儀と法事以外に、たとえば倫理を下支えするようなものを期待することはほとんどなく、仏教者の側も《何も提供できないのではないか》と自信を失ったままである・・・』と云う指摘がなされていて、この鋭い指摘が、仏教界の良きカンフル剤になればと思いつつ、最後に自戒も兼ねて一言、それは今の飽食の時代と違い、五十九年前「贅沢は敵」と耐乏生活を強いられた戦争末期、菓子類も口に出来ず被爆した十三才の男の子の、臨終に際し父親に言った最後の言葉が『お浄土には羊羹があるの?・・・戦争は無いよね・・・』だったのです。
厄除け厄払いお祓い除霊護符呪詛返しの未勒館「密教と四柱推命」
厄除け厄払いお祓い除霊護符永代供養呪詛返しなど未勒館に!密教の加持祈祷・供養「四柱推命」
Copyright © 2008 Mirokukan All Rights Reserved.