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私と仏教との出会い

最初の頃、仏教と云うより宗教そのものに全く無関心だった私は、宗教を信じたり、頼ったりするのは心の弱い人間のする事で、自分の力で生きていこうとする強い人間には、全く必要のない無縁のものだと考えていた。その私が、礼拝施設としての祈祷道場まで造って、今では朝晩の勤行を欠かさず、加持祈祷をしたり人に仏様の話しをするようになったのであるから、人間とはわからないものである。

しかも、学生時代は何度も父が学校へ呼び出されるほどの悪ガキであった私が、縁あって結ばれた妻の実家が、寺院として六百年を越す禅宗の古刹(こさつ)だったこともあって、次第に仏教への関心が深まり、やがて真剣に自分と云うものを考えるようになってからは、時間を見つけては、鶴見の曹洞宗大本山総持寺の座禅堂へ通うようになった。

その後、縁あって高野山の『森寛紹大僧正』のご指導をいただく仏縁に恵まれ、次第に真言密教に魅せられていった私が、重ねて《ガン・難病》の加持祈祷では第一人者と言われていた、同じ高野山の『織田隆弘大僧正』のご指導を頂く幸運に恵まれたのは、正にお大師様のお引き合わせとしか考えられない、天佑冥利(てんゆうみょうり)の出来事であった。

しかし、今になって考えてみれば、私と仏様との最初の出会いは、私が四才の時、母を亡くした時に始まる。暫くの間、父の妹に育てられた私は、やがて新しい母が来ると、その母になかなかなじめず、どうしてもお母さんと言えなかった。用があるときは、その新しい母を「叔母さん」と呼び、事あるごとに悪さや悪戯の限りをつくしては皆を困らせていた。やがて、祖父の元に預けられた私は、明治の頑固がそのまま着物を着たような厳格な祖父と供に、毎朝仏壇の前でお経をあげるようになった。初めは、毎朝祖父が仏壇の前でお経をあげるのを、仕方なく後ろに座って聞いていたが、そのうち祖父のお経の声と供に、亡くなった母の声が聞こえてくるような気がして、誰に言われるともなく、自然に木魚を叩くようになった。

もちろん、幼い私には最初からお経をあげられるわけもなく、ただひたすら木魚の叩き方が悪いと叱られるのが怖さに、必死で祖父の早いお経に遅れまいと、夢中で大きな木魚を叩いていた。


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